1-11 屋敷の外へ

 そのうちに、迎えの車が屋敷の前に着いたという知らせがあり、桜良は白い草履を履き、綿帽子を被せてもらって表玄関から外に出た。

 鬼瓦や妻飾りが重厚な表玄関は、土間や式台の掃除はしたことがあっても、通り抜けて出ていくのは最初で最後のことである。

 迎えの車が止まっている場所までの短い道のりであるが、桜良は形式的に花嫁行列の形をとって歩いた。

 桜良の背後では絹江が朱柄傘をさして花嫁を太陽から隠し、さらにその後ろには蒔絵の装飾のついた長櫃を担いだ使用人が続く。

 踏石の敷かれた道の脇には、宴に呼ばれていた親族が並び、物珍しげに桜良を見ていた。


 裾を踏まないように右手でつまを取り、絹江がさす傘の影から外れないように、桜良はゆっくりと前に進んだ。

 話したり声をかけたりする者はほとんどおらず、聞こえるのは先導役の鈴のちりんちりんという音だけである。

 花嫁は美しく黙っているのが、美徳であるとされている。

 気づけば太陽は西の空で沈みかけていて、人も木々も茜色に染まっていた。その郷愁を誘う光の中で、桜良は幼い日のことを思い出す。


(昔はこのあたりで、和頼や明里と遊んだものだけれど)


 ちょうど懐かしくなったところで、都志子と並んで立つ和頼と明里の前を通り過ぎる。

 しかし作法通りに俯き黙って歩く桜良には、三人の親子の表情はわからない。結局彼らは桜良の本当の家族ではないので、わからなくても困らない。

 別れらしい気持ちもないまま集まった親族を後にして、桜良は屋敷の敷地の外を目指した。

 夕暮れの風が肌寒いはずの気温だったが、花嫁衣裳を着込んだ桜良は冷たさを感じなかった。


 黒くくすんだけやきの木材が歴史の古さを感じさせる瓦屋根の門をくぐり、白塗りの塀を囲むように伸びている小道を進むと、客用の駐車場として使っている芝草の空き地に出る。

 花嫁を迎えに来た黒塗りのクーペはその空き地に駐めてあって、神祇省の高官でありながらも運転手も兼ねているらしい由貴斗が車外で桜良を待っていた。


「荷物は後ろのトランクに。桜良様はこちらのお席にどうぞ」


 前回の訪問時とは違う漆黒のスーツを着た由貴斗が、ドアやトランクを開けて指示を出す。


「荷物は、ここですかね」


 使用人は長櫃を下ろしてトランクに載せ、紐で固定して一息ついた。

 長櫃と同じように桜良も、綿帽子を天井にぶつけないように身を屈めて、黙ったまま後部座席に収まる。

 真新しいクーペの枯茶からちゃのシートはなめらかで触り心地がよく、広々と足を伸ばせる広さを持っていたが、白無垢の桜良は窮屈に座ることしかできなかった。

 桜良が席につくと、絹江は傘を畳んでお辞儀をしてクーペから離れる。

 そうした何人かの付添に見守られて、桜良は長年暮らした屋敷を離れようとしていた。


「準備ができたなら、出発しましょうか」


 運転席に乗り込んだ由貴斗は、シフトレバーでギアを操作し、鍵でエンジンをかけながら桜良に確認した。

 だが桜良が頷こうとしたそのときに、後部座席の窓を誰かが叩く。

 桜良が横を向くと、車の外には和頼が立っていた。礼服の代わりに学生服を着た和頼は、なぜか桜良を追ってここまで来て、車の中を覗き込んで軽く窓ガラスを叩いている。


「彼は、桜良様のご兄弟ですよね」


 車の近くに和頼が来たことに気づいた由貴斗が、サイドブレーキを握ったまま下げるのを止める。

 桜良は返事をせずに、じっと和頼の顔を注視した。

 和頼の表情は普段どおり曇っていたが、最後の最後に勇気を出して桜良にずっと言えなかったことを言おうとしている。

 ためらいがちに口を開く和頼の声は、ガラス越しに桜良の耳に届いた。


「桜良。俺は……」


 遠い昔に白い帽子クローシュを被った桜良の母の姿に見入ってときと同じ、恋い慕う熱を込めた瞳で、和頼は桜良を見つめていた。

 父親の妾であった桜良の母に幼い恋をしていた和頼は、その娘である桜良に想い人の面影を重ね、今もまた恋をしているようだった。


(そうか。だから和頼は私を……)


 桜良は紅をのせたくちびるを閉ざしたまま、拒絶するわけでもなく、受け入れるわけでもなく、ただ和頼を見つめた。

 これまでの桜良は、和頼の好意に気づいてはいても、態度をはっきりさせないその本当の意味までは掴んでいなかった。

 だが今日はたとえ声が聞こえなくても、凛々しく見えて陰りを秘めたその瞳の奥の感情を探るだけで、桜良には和頼の気持ちがすべてわかる。


 真面目で良識のある和頼は、桜良に兄妹以上の愛情を示すことを理性で抑え続けていた。しかし心の底では、神に嫁ぐ桜良を引き止め、自分のものにしたかったのだろう。

 慕情の宿る和頼の表情は、手も触れられないのに桜良のすべてを求めていて、同時にその欲望を恥じていた。


(私がいてもいなくても、和頼はこの先絶対に幸せになれないんだ)


 選んだわけでもなく非道徳的な恋心を背負わされた兄の不幸を、桜良は窓ガラスに触れる和頼の手のひらを眺めて理解した。

 桜良が和頼の腹違いの妹として生きている限り、和頼の願いは歪んだ形でしか叶わないし、そして和頼はその歪みに耐えられる人間ではない。

 しかしこのまま桜良が神喰いの花嫁としてこの世を去ったとしても、和頼の恋は永遠に報われない過去として、彼の心を縛り続けるだろう。


 都志子は和頼の想いに気づいていて桜良を遠ざけたのか、それとも遠ざけられたことが彼にとっての妹の価値を高めたのか。その違いについて考えることにはもう意味はなく、一度抱かれた恋心は消えることなく残り続ける。

 どちらにせよ辛い目にあうしかない、夕日が影を落とす和頼の顔に、桜良は他人事のように同情した。


 切実な気持ちを打ち明けようとする和頼を目の前にしても、桜良は兄のことを好きにも嫌いにもならなかった。何も言葉を交わさずに過ごしてきた日々の長さは、今更無かったことにはできない。

 しかしその重苦しさが十分に伝わった今は、和頼に想われることが無意味だとは思わなかった。

 だから何が和頼の救いになるのかわからない桜良は、薄く化粧をした顔に精一杯に幸せな微笑みを浮かべる。立派な花嫁衣裳を着て神に嫁ぐ自分は、何も思い残すこともなく幸福なのだと伝えようとする。


(切り捨てることも、選び取ることもできないなら、わからなかったことにするしかないから)


 桜良は最初から何もできない人間だし、何かすることができても誰にも変えられない未来もある。

 だがそれでもきっと綿帽子に包まれて目を細める桜良の笑顔は、白い帽子クローシュを被った母の姿以上に、和頼の心に残るはずだった。

 何も気づいていないふりをしてしきたり通りに黙り、最後に兄に見送られることを喜ぶ純粋な妹として振る舞う桜良に、和頼はどうにか口にしようとしていた言葉を失う。


「……じゃあな。達者でな」


 その代わりの何も面白くない別れの挨拶を、和頼は泣き出しそうな震える声で言った。その声はあまりにもくぐもってはっきりしなかったので、窓ガラスを挟んだ桜良はあやうく聞き逃してしまうところだった。

 そしてまた和頼はこれまでと同じように俯き、下ろした前髪の奥に瞳を隠して遠ざかる。迷いやためらいを見せながらも、諦めて桜良の側から去る。

 本当の望みが何であれ、残されたものは一人で生きる他に道はなかった。

 親戚たちが並ぶ列に和頼が戻るのを見て、桜良は窓の外を覗くのをやめた。


「用は済んだみたいですね」


 桜良と和頼のやりとりが終わったのを確認した由貴斗が、サイドブレーキを下ろして車を発進させる。

 クーペは低速で空き地を出て、雑木林や田畑を通る農道に出ると次第に加速して流れるように走っていく。

 振り返らずに目を伏せ続ける桜良は、後ろの窓リアウインドウの向こうで並ぶ人や屋敷の門が小さくなっていく光景も見なかった。

 血縁のしがらみから一足先に抜け出るのは清々しい気分で、どうやら和頼に微笑んだ気持ちは嘘ではなかったことに桜良は気づいた。


(お母さんと同じように、私も車に乗ってもう戻らない)


 鈍く身体に響く車の排気音を聞きながら、桜良は父と母が海に出かけたまま帰ってこなかった日のことを思い出す。

 生きている二人を見た最後の記憶だからなのか、桜良は見たことも聞いたことも鮮明に覚えていた。


(お父さんは自分の車は十二気筒だって自慢してたけれども、それはこの車よりもすごいものなのだろうか)


 自分がもうすぐ死ぬことも知らずに無邪気に自動車の話をしていた父親の言葉を思い出し、桜良は運転席の由貴斗の方を向いた。


「あの、十二気筒の車って特別なものなのですか?」


 車の良し悪しや違いがまったくわからない桜良は、自分よりは詳しそうに見えた由貴斗に教えてもらおうとする。

 しかし由貴斗は、慣れた手付きでハンドルを握ったまま首を傾げた。


「さあ、どうなんでしょう。僕は運転はできますが、技術的なことに詳しいわけではないので」


 遠い視線で前を見ている由貴斗の横顔が、かすかに桜良に注意を払う。


「桜良様は、自動車にご興味がおありですか?」


「いいえ。ただ、父が車が好きだったので」


 もしかすると茶道や華道よりは自動車に関心があるのかもしれないが、特にこだわりがあるわけではないので桜良は首を振った。


「お父上が、そうでしたが」


 桜良の両親の事故の詳細を知っているのかいないのか、由貴斗は納得した顔で質問を終える。

 特に他に話したいこともない桜良は、助手席にかしこまって座ったまま今度は窓の外を見た。

 いつの間にかクーペが走る道は郊外を横切る農道から市街地の脇を走る幹線道路になっていて、周囲を走る車も車線も増えている。


 石細工の正面ファサードが重厚な洋風の商店に、ひときわ高く煉瓦で建てられた時計塔。白い漆喰がまぶしい土蔵造りの町家に、屋根付きのテラス席で人がくつろぐレストランなど、曲がって分かれた道の先に広がる市街地にひしめく建物は和洋様々な文化が溶け合って華やかだ。

 またさらに車道の横には透かし彫りの飾りのついたガス燈が等間隔でいくつも並び、刻々と暗さを増していく夕暮れを明るく照らしている。


 時折通り過ぎる他の車のヘッドライトの光に目をすがめながら、桜良は久しぶりに見た市街地のにぎわいに驚いた。西都の中心部は幼い頃に母に連れられて来たときよりもさらに栄えていて、集まる人や物の多さに自分が知る世界の狭さを実感する。

 屋敷の外には人々が楽しげに買い物をしたり食事をしたりするきらびやかな場所があるが、桜良にはもうその中に入る機会は与えられていない。

 しかし桜良は、広くまぶしい世界を知らないまま神在森で待つ神のもとに行く自分の人生に、それなりの価値を感じていた。


(きっと何も知らないほうが、神様だけをより深く知ることができるから)


 触れられそうで遠く車の窓の外を流れていく街の景色を前に、桜良は白粉を塗った手をひざの上で組んだまま微笑んだ。

 桜良は自らの命と引き換えに神の肉を口にする機会を得た存在であり、その死は神の再生のためにある。

 だから白無垢を着せられ、物も言わずに黒い自動車で運ばれる桜良の姿は、葬送の棺の中で眠る死者に似ていた。

 桜良は死者だから生きていく人のことはわからないし、またわからなくてもいいのだ。

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