第一章 虐げられた少女
1-1 クリーム色の自動車
西都の歴史ある伯爵家のご当主の妾だった母は、革張りの寝椅子に腰掛け、透明な宝石みたいなロックグラスで
「知れば知るほど、こわいものが増えていく。だから勉強なんかしないで、ばかな子でいるのが一番よ。かわいい女の子は、ばかで許してもらえるんだから」
酔っ払った母が花柄のワンピースを着た幼い桜良を膝の上に置き、
まだ数年しか生きていない桜良には、母が何を言っているのかよくわからない。でも母の手に触れられていると安心するので、母の言うことには素直に頷いた。
「うん。わたし、ばかな子でいる」
桜良は背中を丸めて、派手な夜会服姿の母親の、甘い香水の匂いがする胸に頭を預ける。
その後、本当に自分が馬鹿な子でいられたかどうかについては自信がない。だが桜良が自分の知識を増やすことに興味がないまま成長したのは、その母の忠告があったからだと思う。
若くして桜良を生んだ母・
指なしのレースのロンググローブと巻下ろした薄い絹の靴下を身に着けた手足は細く長く、常にヒールのあるパンプスを履いているから立ち姿は必要以上に背が高く見える。
「わたし、着物って見てるだけで息が詰まっちゃうんだよね」と、彼女は家のリビングで呉服店のカタログをめくってはよく目を細めて苦笑していた。
だから普通の既婚女性が着るような留袖や浴衣は、彼女のクローゼットには一枚も入っていない。彼女は海の向こうの映画女優のような、派手でまぶしい装いがよく似合う人だった。
当然化粧も、目元を彩る灰紫のアイシャドーに優美な弧を描く鮮やかなルージュ、肌をほの白く整えるおしろいに耳まで赤く塗られた頬紅などで、とびきり濃く仕上げられていた。厚化粧をしていても美人だとわかるはっきりした顔立ちは華やかだけどさみしげで、いつも泣き出しそうに見える顔で笑っていた。
また、こうして皇国らしい伝統の文化とは縁遠く生きていた母を、妾として溺愛していた伯爵家の当主である父も、異国の趣味にかぶれた酔狂な人物であった。
桜良の父・
だが好奇心が強く常識に囚われない気風を持って生まれた俊作は、皇国の歴史を尊重することよりも、異国の文化を消費することを好んでいた。
そのため彼は伝統的な様式を受け継ぐ先祖代々の屋敷の敷地内に、外つ国から招いた建築家に設計を任せた別邸を構え、妾であるハルとその庶子の桜良を住まわせて、舶来の品々に囲まれた生活を送らせた。
別邸は濃緑の軒や瓦と、白いモルタルの壁のコントラストが美しい木造の洋館で、窓には円弧や直線が優美な模様を描いたステンドグラスがはめられていた。
邸内の装飾も天井は豪奢な放射状の石膏装飾が施されている一方で、床にはすっきりとした幾何学的な文様が描かれたカーペットが敷かれていて、テーブルやソファなどの家具も上品で洗練されたものが揃い、綺麗に設えられていたことを桜良は覚えている。
母は
(おかあさんは、なにを見ているんだろう)
近くにいるのに遠い横顔を見上げて、桜良は母の頭の中のことについて考えていた。その目が本当は何を映しているのか気になるけれども、訊いてはいけない気がして押し黙る。
もしかすると母には行きたい場所があったのかもしれないが、そこがどこかなのかは今はもう知ることができない。
塔に閉じ込められたおとぎ話のお姫様みたいな切なさで、母は聞き取れない歌を口ずさむ。しかし娘の桜良が知っているかぎり、母は籠の中の鳥ではなかった。
母は特に理由もなく街に出かけていて、たまに桜良を連れて行ったときには、百貨店で可愛らしいが値が張る子供服を何着も買った。
また父も、母と二人でよく遠出をした。
父には男児と女児を一人ずつ生んだ正妻がいて、公の集まりには正妻を伴ったが、私的な外出には必ず妾である桜良の母を相手に選んだ。
子供の桜良から見ても正妻と妾のどちらが愛されているかがはっきりとわかるほどだったので、二人の女の間にはそれなりの確執があった。だが正妻を母に持つ嫡出の兄妹と庶子の桜良の関係は必ずしも悪くはなかった。歳も近く同じ場所に住んでいる三人は、小学校にあがる前はよく屋敷の敷地で遊んだ。
だからそのよく晴れた弥生の月のある午後も、桜良は腹違いの兄の
「この花は、あかりのだよ」
「じゃあおれは、この枝をもらう」
明里の小さな手がしっかりと濃い黄色のたんぽぽの花を何本か折って、和頼が太めの枝を手にして振る。
芝生が綺麗な表の庭と違って、裏庭は木々や草花が茂っていた。
ふくふくとした丸顔の明里と、幼くとも凛々しい顔立ちの和頼は、母親は同じでもあまり似ていない。しかし兄妹であるので服装はだいたい同じで、簡素だが仕立ての良い木綿の肩上げした着物を着た二人は、草や花をちぎったり埋めたりして、子供らしくたいした目的もなく過ごしている。
一方着物ではなく母親に買ってもらったギンガムチェックのジャンパースカートを履いた桜良は、兄と妹が植物をもてあそんでいる横でしゃがんで小石をいじっていた。
「さくらは、石が好きなんだな」
和頼が横目で桜良を見て、話しかける。
「うん」
別に石にこだわりがあるわけではないのだが、否定するほどのことでもないので桜良は適当な返事をした。
小さな石の尖りや冷たさは嫌いではないが、桜良は別にそれが金属や樹脂でも構わなかった。
兄の和頼が桜良に話しかけてもあまり気にしていない様子で、明里は一人でたんぽぽの花弁をちぎっていた。だがやがて何かに気づくと、彼女は顔を上げた。
「父さまのくるまのおとだ」
耳の良い明里がつぶやくと同時に、離れの玄関の方からエンジン音が響いた。それは明里の言う通り、父・俊作が愛車を玄関ポーチに横付けした音だった。
全員揃って父親と会う機会がいつもあるわけではないので、三人は無言でうなずきあって玄関の方に出た。
三人が家の影から顔を出すと、ガラス張りの
運転が好きな父は、
「今日は三人も見送りがいるのか」
子供たちが来たことに気づくと、父は手を広げて笑顔を見せた。
しっかりとしたあごと太い眉が印象的な桜の父は、髪を後ろになでつけていてもどこか大人になりきらない雰囲気があって、実際に家長としてはまだ若かった。
三人は父親の前にぞろりと並び、まず話しかけたのは年長の和頼である。
「今日もハルさんと出かけるの?」
「そうだ。今日は新しく浜の方にできた海浜公園に行くんだ」
桜良の母をハルさんと呼んで和頼が尋ねると、父が行き先も含めて答えた。その口ぶりは、まるで海浜公園というところが地上の楽園であるかのように、自慢げである。
だが三人は父に甘える習慣をもっていなかったので、「ふうん」とだけ言って、その場所に連れて行ってほしいとはねだらなかった。
(おとうさんのくるま、またあたらしくなってる)
海浜公園という場所には興味を持たず、桜良は目の前にある、新品に近い輝きの自動車を見つめた。
すると父は少年のように目を輝かせ、そっと車の窓の縁を撫でて、桜良に語りかけた。
「フローレンス風のクリーム色で注文した、インターナショナルモデルの新型自動車だ。エンジンは十二気筒で、スターターもヘッドライトも電気式。もちろん屋根付き。この国の首相が乗ってる車よりも良い車だぞ」
恍惚とした表情を浮かべて、父は自分の車の性能をひけらかす。
父が何を言っているのか、桜良にはまったくわからない。それはおそらく、桜良が子供だからではなさそうだった。
だが父があまりにも誇らしげなので、桜良は何か褒め言葉を返さなければならないと思った。そこで隣の和頼に助け舟を求めようとしたところで、玄関の扉が開いた。
外に出てきたのは、薄い
「女の子にそんな自慢をしたって、絶対わかんないでしょ」
母は桜良に話しかけるときの甘い猫撫で声とは違う、落ち着いて少々冷めた調子の、それでいて聞く人に親密さを感じさせ魅了する声で、子供たちの父親であり自分の恋人である男をからかった。
すっきりと髪を短くした耳元に、銀の留め具に赤い瑪瑙の輪っかが揺れるイヤリングをつけた母は、咲きほころぶ春の花のように美しく、ちょっと眠たげな顔で微笑んでいる。
広告の画のように完璧なその母の姿には、父だけではなく桜良の隣にぼんやりと立つ兄妹も目を奪われていて、特に和頼の瞳には幼い憧憬以上の感情が宿る。
どんなときも人の視線を堂々と受け止める容姿端麗な母が誇らしくて、桜良は自分も背筋をのばした。
ゆっくりと車の近くに寄ってきた母の手をとって引き寄せ、父は嬉しそうにからかい返す。
「何回デートをしてもスーパーカーの
そして父と母は子供たちがすぐ近くにいるのを気にもとめずにお互いの首に抱きつき、べたべたと愛撫したり口づけをしたりした。
遠慮なく睦み合う父親とその妾を前にして、和頼と明里は視線をさまよわせる。だがその光景を見慣れている桜良はしっかりと顔を上げて、くちびるを重ねる父と母を凝視した。
(おとうさんは、おかあさんのことがほんとうにすきなんだな)
いつも心がどこか遠くにあった母が、父を心から愛していたかどうかはわからない。
しかし父が母を真剣に想っていたのは確かで、どんなときでも少しでも長い二人の時間を求めていた。
やがて玄関の前でやるべきことを十分にやった二人は、今度は車に乗り込んで笑い合う。
「それじゃあ、父さんたちはちょっと出かけてくるからな。お前たちも大人になったときに後悔しないように、よく遊べよ」
今も十分に遊んでいるように見える運転席の父が、子供たちに助言を残してアクセルを踏んだ。クリーム色の自動車は低い音を立てて滑らかに走り出し、タイルで舗装された敷地内の道の上を進んでいく。
助手席の母が「じゃあね」と口を動かして手をふるのを桜良は見たが、エンジン音で声は聞こえなかった。
残された排気ガスの臭いの中で、桜良は満開の桜並木の向こうへと車が消えていくのを見送る。
(さくらは、わたしのお花)
自分の名前の花であるので、桜良は桜の花が好きだった。
桜良の頭をぼんやりとさせる春の日差しが、白い桜もクリーム色の自動車もすべてを平等に暖かく染めている。
霞のように溶けていく景色を前に三人の子供はしばらく静止していたが、それからまた玄関の前のポーチを去って、意味を持たない庭遊びに戻った。
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