1-2 夢の終わり

 夜、父の車が遠出から戻ってきて母を離れの玄関で降ろすときには、ドアの閉まる音や二人の話し声が桜良のいる子供部屋にも聞こえる。

 その音が響くのが宵の口であれ夜更けであれ、父と母は桜良のいる屋敷に必ず帰ってくるはずだった。

 だがその日は何も聞こえず、桜良は母の姿を見ないまま朝を迎えた。


「おかあさんは、まだかえってこないの」


 白いフリルのついたパジャマから着替えずに、桜良が一階のキッチンに下りると、いつも面倒を見てくれている若い使用人の姐やねえやが、フライパンで卵を炒って待っていた。

 金縁の皿に盛られた炒り卵はいつもと同じように香ばしい匂いがしたけれども、姐やの表情は暗い。

 姐やは桜良が下りてきたことに気がつくと、フライパンを火の消えた焜炉コンロに戻した。


「お嬢様。お父上とお母上は……」


 屈んで目線を桜良に合わせて、姐やが父と母が帰ってこない理由を説明する。

 彼女が言うには、父が真夜中に母を車に載せて海沿いの崖を走っていたところ、ちょうどそのときに落石があったらしい。父は落石を避けようとハンドルを切ったが避けきれず、父の自慢のクリーム色の自動車は一瞬で巨大な岩の下敷きになった。

 車の中にいた父と母は当然即死して、遺体もほとんど形が残っていないそうである。


(じゃあもう、おかあさんにもおとうさんにも、あえないんだ)


 桜良は現実感のないまま、姐やに抱きしめられた。

 自分を可愛がってくれた両親が死んだのだから、もっと悲しむべきだったのかもしれない。だが父と母はどこかこの現実の世界から浮いて生きていた気がしたので、一瞬で二人一緒に死んでしまえたのは幸せだったように思える。


(おかあさんは行きたいところに、行けたのかな)


 ここではないどこかを見ていた美しい母のことを考えて、桜良は家政婦の姐やの胸元に頭を預けて悲しんでいるふりをする。何度も洗濯されたエプロンをつけた温かな姐やの胸元は、化粧をして香水をつけていた母とは違う、地に足のついた生活の匂いがした。


 それから数日後に、伯爵家の当主であった父の立派な葬儀と、彼の妾だった母のささやかな葬儀が行われた。死んだのは二人一緒だったのに、葬儀や墓の場所が別であることは、二人が死んだことよりも悲しいことだと桜良は思った。


 おときの食事が並んだ大きな和室で、喪服を着た大人たちは大勢で今後のことについて話し合っていたが、桜良は一人で部屋の隅に座っていた。和頼と明里も離れたところにいて、彼らの母である正妻の隣で静かにしていた。

 その後、両親の死後もしばらく、桜良は使用人の姐やと共に別邸で暮らした。


 しかし死んだ二人の四十九日が過ぎた頃、別邸が突然の火事で全焼したので、母の記憶が残る場所での桜良の生活は終わった。


 出火はちょうど姐やが桜良を連れ出していたときだったため、その火事で誰も死ぬことはなかった。

 だがその夜空を赤く染める炎によって、父が母のために莫大な財産を投じて築いた瀟洒しょうしゃな洋館は、彼らと同じように灰に還っていく。

 最後に一際輝くように赤くまぶしい光を放つ屋敷からは、ぱちぱちと炎が燃える音や中で床や柱が崩れる音がして、黒煙の嫌な臭いが広がっていた。


 せめて焼けていく屋敷を見上げて記憶に残そうと、外出から帰宅して火事を知った桜良は姐やの側から離れて庭に出た。そこで桜良は、先客がいるのを見る。


「あそこにいるのは……」


 人影に気づいたところで立ち止まって、桜良はぽつりと声をもらした。

 主が去って雑草で荒れつつあった広大な芝生の庭に立っているのは、久世月家の当主であった父・俊作の正妻の都志子としこである。


 夜の闇に溶けるような真っ黒な着物を着た都志子は、半分怒ったような笑顔を浮かべて、屋敷が炎に包まれていくのを眺めていた。

 桜良がそばにいることに気づくと、草履を履いた彼女は上品な足取りで近づいてきて、冷ややかに見下ろした。


「あの人があの女と見た夢も、これでおしまい」


 炎に照らされた都志子の眼光が幼く小さな桜良を捉えて、無理して平常を装った声が朗らかに話す。

 初めてまともに見る彼女の顔は、思慮深げで立派な大人に見えるのに、その裏にある感情が怖く思えた。


「あなたもこれからは、生んだ母親の身分に見合った生活を送りなさい」


 都志子は夜風に冷えた手で桜良の体温が高い頬を掴み、物事を正すように妾の子を諭した。

 有無を言わさない都志子の態度に、桜良は消え入りそうな声で「はい」と返事をする。


 自分を愛さなかった夫を、そして夫を永遠に奪った妾とその子供を、都志子は憎んでいた。だが名家から嫁いできた彼女はその誇りの高さゆえに、恨み言をそのまま吐露することはない。

 出火の原因については、都志子も他の大人も何も語らなかった。しかし誰も語らないということは、誰かに原因があるということでもあった。


(この人が、おかあさんとわたしのおうちをもやした)


 別邸に火をつけたのが都志子であることは、桜良にもすぐにわかった。だが父も母も死んだ今は、そのことを口にしたところで何もかもが無駄な気がした。


 それまでの桜良は、父と母の見ていた夢の片隅で、霞のように軽い幸福に包まれて生きていた。

 その夢が終わり、今度はつらく息苦しい不幸の中で生かされることを、桜良は都志子の静かな憎しみを感じ取って子供ながらに理解した。

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