1-4 かつての兄と妹と

 朝食の配膳と片付けが終わった後も、桜良は洗濯や掃除などをこなし働き続けた。

 都志子と絹江は運転手に車を出させて、昼前からどこかへ外出している。

 屋敷には庭師の老人が一人残っていたが、とりたてて会話は生まれない。屋敷で働く男性たちは、そもそも桜良以外の者に対しても深入りしないように心掛けているからだ。


(最初から無関係な人しかいなければ、困ることはないのに)


 午後には厚い雲に覆われた灰色の空を庭から見上げて、桜良は洗濯物を物干し竿から外す。幸い午前中は少々晴れていたので、どの洗濯物も冷たいが乾いていた。

 庭師の姿は見えないものの、隅々まで手入れの行き届いた自然豊かな中庭の居心地は悪くはない。冬の今は寒さを我慢すれば、南天の赤い実や緑が曇天や積雪に映えるのを見ることができる。

 だから桜良は、一人で庭にいる時間が嫌いではなかった。


 ほんの少しだけ手を止めて、他人のために美しく保たれた庭の風景を楽しむ。

 そうして寒空の下で桜良が一息ついていると、門の方から誰かが帰ってくる気配がした。


「ただいま。桜良」


 明るい声で気兼ねなく桜良を呼び捨てにするのは、本来は腹違いの妹である明里である。


「おかえりなさいませ。明里様」


 桜良は乾いた洗濯物を手に、会釈をして明里を迎えた。

 近くの女学校に通っている明里は、薄紫色の菱文の丸袖と海老茶の女袴に革靴を履いていて、リボンで髪をまとめた姿はいかにも女学生らしい装いである。

 丸顔で大柄な明里は決して美人ではないのだが、堂々とした態度で可愛らしい服装を着こなしていた。

 明里は快活な笑顔で桜良に近寄り、学生鞄からしわくちゃの巾着を出して押し付ける。


「学校の授業で巾着を作ったんだけれども、私は上手にできなかったから桜良が作り直してちょうだいな。布の生地はとても、気に入ってるのよ」


 その強引さは人に物を頼む態度ではないが、明里に悪気はなく彼女はそうした人間性を持って生まれ育っている。

 女中の桜良は要求を拒まず「はい」と返事をして、失敗作の巾着を受け取った。

 粛々と従順な桜良に、明里はさらに命令を重ねた。


直芳なおよしさんへの贈り物を入れる袋にする予定だから、特に綺麗な仕上がりにしてほしいわ」


 恥じることなく人に頼る明里が、笑みを深める。

 直芳というのは明里の婚約者あり、帝の縁戚の由緒正しい家柄出身の青年である。親同士決めた縁談ではあるが、明里は直芳に惚れており、直芳も明里を気に入っているらしいと桜良は聞いていた。


 好きな人物に贈るなら、真心を込めて自分で作り直すべきではないかと訊ねたかったが、立場を考えて桜良は押し黙る。

 皮肉を返されたとしても、おそらく明里は意に介さない。しかし明里の母親である都志子は、桜良が生意気な口を利くことを許さないだろう。


「あなたには誰も相手がいなくて、気の毒ね」


 開けた鞄を閉じながら、明里は軽くつぶやいた。

 同じ男を父に持ちながら同じ幸せを得ることはない桜良に対して、明里は同情している。だがその哀れみは、無神経で温もりがない。


(本当に気の毒だと思うのなら、何も言わずに放っておいてくれればいいのに)


 表情には何も出さずに、桜良は心のなかで毒づいた。わざわざお前は不幸だと言われるのは、幸せになることを諦めていても嫌な気持ちになる。

 しかしそうした感情の機微に疎い明里は、何も気遣うことなく、またもうひとつの雑用を桜良に言いつけた。


「あと今から私、自分の部屋で宿題をするの。だからお茶とお菓子の準備もよろしくね」


「かしこまりました」


 内玄関の方へと足取り軽く去っていく明里の後ろ姿に、桜良は使用人として頭を下げた。

 本当は桜良が腹違いの姉であることを、明里も知らないわけではない。しかし明里は母親が違っても隔てなく遊んでいた幼い頃のことを覚えていないようで、主家の人間として振る舞うことに迷いがなかった。


(私も単なる女中として接すればいいわけだから、楽は楽なのだけれども)


 桜良は気を取り直して巾着を前掛けにしまい、洗濯物を取り込む作業を進める手を早める。

 朝から夜まで働かなくてはならない桜良には、庭の南天の赤色をゆっくりと愛でる時間はなかった。


 ◆


 その後、明里のためにお茶を淹れて運び、取り入れた洗濯物を畳んだ桜良は、女中部屋に戻って頼まれた巾着の修理を進めるために重い木製の裁縫箱を開けた。

 下手くそに縫い付けられた糸を切ってほどき、生地を伸ばしていた桜良は、内玄関の外から人が歩いてくる音を聞く。

 嫡男の和頼が高等学校から帰宅したのだとわかった桜良は、かしこまって玄関に座って出迎えた。


「おかえりなさいませ、和頼様」


 乾いた音をたてて開く引き戸を前にして、桜良は和頼に丁寧にお辞儀をした。

 高等科の二年生として詰め襟の学生服の上に黒い羊毛ウールのコートを着た和頼は、凛々しい眉や瞳が男前な十八歳で、高い背丈と広い肩幅は伯爵家の次期当主にふさわしい風貌であるように見える。

 しかし恵まれた容姿に反して和頼の表情は常に曇っていて、まとう雰囲気もどこか陰鬱である。


「ああ。今帰った」


 口ごもるようにつぶやき、和頼は窮屈そうに身を屈めて靴を脱いだ。その態度は主らしさに欠けてぎこちなく、視線も桜良を避けて伏せられていた。

 そうした普段の様子から察するに、兄の和頼は妹の明里と違って、桜良を女中扱いすることに居心地の悪さを感じているようである。


 幼い頃の和頼は、腹違いの妹の桜良にもいつも優しく話しかけてくれていた。

 勘違いや自意識過剰でなければ、和頼は今も桜良のことを気にしてくれているはずである。しかし状況が変わってしまってからは、幼い頃と同じではいられずよそよそしい。


「先程、明里様のためにお茶を淹れましたが、和頼様も何かお飲みになりますか?」


 和頼の脱いだ革靴を下駄箱にしまいながら、桜良は温かい飲み物が必要ではないかと和頼に訊ねた。

 女中らしく振る舞う桜良を、和頼は一瞬だけ顔を上げてまともに見た。そして何か言いたげな顔をしたが、すぐにまた顔を伏せて聞き取りづらい声で答える。


「いや。俺はいらない」


 そう言って桜良に背を向けて、和頼はコート姿のまま自室の方へと消えていく。


(一体和頼は、何を言いたかったのだろう)


 桜良は和頼が伝えようとした言葉を考えながら、玄関で一人立ち上がった。

 振り向き女中部屋に戻ろうとすると、廊下の進んだ先に人影があることに気づく。

 それはじっと桜良を見つめる、これから人を殺そうかどうか理性的に迷っているような、複雑な表情を浮かべた都志子の姿であった。


(あの人が見ていたからか。和頼が黙ったのは)


 和頼が何を言おうとしていたのかはわからない。

 しかし和頼が黙った理由には納得し、桜良は礼儀正しく立ち止まって、都志子に深々とお辞儀をした。顔を伏せるのは、その方が都志子の怒りを買わずに済むからでもある。


 幸いなことに、都志子が桜良に近づく気配はなかった。

 顔の険しさをごまかすように、都志子は平静なふりをして何気ない言葉をかける。


「桜良さん。もうそろそろお食事の準備、お願いね」


「はい。かしこまりました」


 深く頭を下げたまま、桜良は返事をした。

 立ち去る足音がしてから顔を上げたので、そのときにはもう都志子の姿は廊下にはなかった。


(ちょっと話すだけで、そんなに警戒されるんだ)


 重い緊張をといて、桜良は軽く息をつく。

 桜良と和頼が満足に言葉を交わすこともできないのは、やはり都志子の目を気にする必要があるからである。

 都志子は何よりも、和頼と桜良が親しい関係になることを恐れていた。

 だから少しでも和頼が桜良に優しげに話しかけたのなら、都志子は桜良が和頼を誘惑したものと見なす。


 そうしたときには都志子は、桜良は母親と同じ売女であり、見境なく色目を使うみだらな女なのだと、やわらかな言葉遣いで罵った。またさらに昔は言葉だけでは済まず、都志子は幼い桜良をしつけと称して土蔵に折檻したこともある。

 都志子が万事そうした調子であるので、和頼は桜良がひどい仕打ちを受けないように、次第に距離を置くようになったのだ。


(お互い余計なことを言わなければ、とりあえず文句は言われないから)


 女中部屋に戻りふすまを閉めた桜良は、糸を解きかけた巾着を床から拾い上げる。

 高窓から見える空の暗さは夕暮れの度合いで、都志子が言っていた通り、夕食の支度をしなければならない時間が近づいていた。


 結局遠くにいるのなら、何を想われていてもたいした意味はない。桜良にとっての和頼は、そうした存在であった。

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