3-11 うさぎ汁

 普段よりもずっと早い時間に床についた椿咲は翌朝、日が昇る前に目を覚ました。


(厨房に行って朝食を作らなければいけませんから、まあちょうど良い時間ですね)


 椿咲は几帳きちょうや蔀戸の隙間からもれる薄明かりから、朝が近いことを理解した。

 起き上がって横を見てみると、宇迦尊はうつ伏せになって静かに眠り続けている。


 椿咲は宇迦尊を起こしてしまわないように気をつけて、とばりを上げて寝室から出た。

 そして前日に聞いていた真那斗からの指示に従って別室で身を清め、手触りの良い瑠璃紺のモスリンの小紋に着替えて、髪を結って袖を括る。

 身支度を整えた椿咲は館の北の裏庭に向かい、そこに建てられた切妻造りの小屋に入った。


「おはようございます」


 椿咲は引き戸を開けて、礼儀正しくお辞儀をした。

 思ったよりも広い小屋の中には石でできた竈や木製の流しが並んだ土間の厨房があり、宇迦尊の従者であり料理人でもある真那斗が作業台で包丁を研いで待っていた。


「ちゃんと時間通りに来たようだな」


 熨斗目色のしめいろの作務衣を着た真那斗は、包丁を研ぐ手を止めずに横目で椿咲をじろりと見る。

 ここで改めて真那斗の日に焼けた精悍な横顔をよく見て、椿咲は真那斗が神祇省の役人の男によく似ていることに気づいた。服装や佇まいが違うから気が付かなかったが、もしかすると二人は血縁関係にあるのかもしれないと椿咲は思った。


「宇迦様と一緒に早く寝たので、ちゃんと起きることができました」


 椿咲は顔を上げて微笑み、にこやかに約束の時間に間に合った理由を述べる。

 機嫌の良い椿咲に対して、真那斗はやや不機嫌そうに包丁を研ぎ終えた。


「お前がうさぎ汁を作りたいと言ったから、俺もちゃんとうさぎを用意してきたぞ」


 そう言って真那斗は、床に置かれた籠から一匹のうさぎの耳を掴んで椿咲に見せた。


 うさぎは目を閉じてすでに死んでいて、真っ白な毛に覆われた身体は小さいけれども丸々としている。

 自分の要望通りに本当にうさぎが用意されたことに感動して、椿咲は手を合わせて真那斗にお礼を言った。


「ありがとうございます。一度食べてみたかったんです。うさぎ汁を」


 宇迦尊の最後の朝食として作りたいものは何かと言われて思い浮かんだのは、以前に弥太郎が故郷ではよく食べたと話していたうさぎ汁だった。

 これまでなかなか食べる機会がなかった北国の郷土料理を口にすることができそうで、椿咲はとても嬉しい。


 しかし急遽狩るか何かしてうさぎを手に入れてきた真那斗にとっては、椿咲の注文は不可解で少し腹が立つものだったようだ。


「こういうときは普通はな、自分が食べたいものじゃなくて、自分が作れるものを言うんだぞ」


 軽くたしなめてくる真那斗に、椿咲は一応申し訳なさそうな顔をして謝った。


「すみません。でも何で良いと、言われましたので」


 本当に悪いことをしたとは思っていなくても、椿咲はとりあえずは謝罪ができる性分である。

 真那斗は何でも良いと言っても限度があると言いたげな顔をしていたが、諦めてうさぎをまな板の上に置く。


「まあいい。時間がかかる料理だから、早く始めるぞ」


「はい。わかりました」


 荒っぽく命令されることを新鮮に感じながら、椿咲は真那斗のいる作業台の方へ移動した。


(どちらにせよこんなに古い厨房では、この人にかなり頼らないと朝食は完成しそうにないです)


 女学校でも自宅でも、ガスと水道が揃ったキッチンしか使ったことがない椿咲は、何百年も前に時間旅行をしたような気持ちで真那斗の隣に立った。


「では、うさぎの捌き方を教えてください」


 家事はすべて使用人に任せる生活をしていた椿咲は、料理をした経験があまりない。

 それでもやれるところはまではやってみようと、椿咲は研いでもらったばかりの包丁を手にして真那斗に訊ねる。


 真那斗は不慣れな椿咲の手付きを不安げに見つつも、面倒くさいと思っているのを我慢しているのであろう表情で手順を教えてくれた。


「まず後脚の足首に切り目を入れて、頭の方に引っ張って皮をはがせ」


「えっと、後脚ですね」


 椿咲はうさぎの身体を持ち上げて、後脚を自分の手元に運んだ。冬の朝に死んでいるうさぎの身体はふさふさの毛に反して重く冷たくて、だらりと力なくまな板の上に横になった。

 そして爪の生えた固いところの少し上に包丁を入れて、切った毛皮の縁に手をかけて剥がす。


(動物の皮は、意外と簡単に剥がせるものなのですね)


 少しの力で簡単に皮が肉から離れていく心地よさに、椿咲はかすかな興奮を覚えた。

 所々が白い脂に覆われた薄紅色のうさぎの肉は弾力があって手触り良く、女学校の授業で魚を捌いたときよりもさらに、命を奪って食べるのだという実感を椿咲に与える。


「前脚の先まで剥がせたら、首と前脚の先のを切って皮を切り離す。爪や皮の残っている後脚の先もここで切れ」


 真那斗は危なっかしいものの言われたことはできている椿咲の手元を見て、次の指示を出した。

 その声の響きから察するに、真那斗が考えていたよりも椿咲は肉の扱いが下手ではないようだった。

 それほど叱られずに済んでいる椿咲は、少々誇らしげに返事をした。


「はい。首と脚の先ですね」


 ほとんどの皮を剥がせた椿咲は、銀色の切っ先の鋭い肉切り包丁を使って、片手で掴めてしまううさぎの細い首を切り落とした。

 軽快な音をたてて、包丁の刃がまな板に触れる。

 研ぎたての包丁の切れ味は鋭く、あまりにも簡単に骨や肉を断つことができたので、木製の柄を握る椿咲の手は少し緊張で震えた。


(血が……)


 うさぎは十分に血抜きがしてあったが、それでも切った首からは少量の血が流れて清潔なまな板を汚した。


 良家の淑女として育った椿咲は、人のものであれ、動物のものであれ、あまり血が流れる傷を見ることはなく育ってきた。

 しかし皮を剥がされたうさぎの首から流れる血の匂いを嗅いでも、不思議と残酷だとは思わずにむしろ落ち着いた。


(首とあと、脚の先ですね)


 椿咲は包丁で、皮が残っているうさぎの脚の先を切った。

 完全に皮を剥がされた首のないうさぎの肉は一回り小さくなって、無力に人間の手によってなすがままにされている。

 その隣には生きていたときの姿を残した、中身が空になったうさぎの皮が並んでいた。


「皮を全部はがせたら、腹を割いて内蔵をとれ」


 日々いろんな生き物を捌いているであろう真那斗は、椿咲と違って何の感慨にも浸らずに次にやるべきことについて話す。

 椿咲はその声に従って、うさぎの肉をあおむけにして浅く腹のところに包丁を入れた。

 すると赤黒かったり灰色だったりする内蔵が、切り目から覗く。


 椿咲はその冷たい塊に手をつっこんで、内蔵を取り除いた。

 やわらかい内臓を傷つけないように気をつけたけれども、うさぎの身体の中からは濃い血が流れて、野性味のある匂いは強くなる。

 そのグロテスクな状況に、椿咲は当然のように恍惚感を覚えた。


(宇迦様も、このうさぎみたいに切り開かれて捌かれるのでしょうか)


 神の肉をどうやって食べることになるのか、椿咲は知らない。

 しかし椿咲には小さなうさぎが、宇迦尊の姿に重なって見えた。それどころか椿咲は、自分が包丁で切っているのが、宇迦尊であるという錯覚すらしそうになる。

 小さな子どもの姿をした宇迦尊が内臓を暴かれる様子を想像することは絶対的な倫理に反していて、だからこそ椿咲は空想をやめることができない。


「内臓が取れたなら、あとは足の骨と背骨をとって……」


 椿咲の空想に構うことなく、真那斗の指示は続く。だんだん細かい作業になってきたので、椿咲は無理だと思ったら真那斗に任せた。

 真那斗は椿咲とは比べ物にならないほど手際よく迷いなく、うさぎの肉に包丁を入れた。


 やがて毛皮も内臓も奪われたうさぎは、元の形がわからなくなるほどに切り分けられて、いくつかの肉の塊になる。

 椿咲はほとんど可食部分だけになったうさぎの肉をそっと指で弄んで、そのしっとりとした冷たさに触れた。


「ところであなたは宇迦様を、どうやって料理するのですか?」


 うさぎを捌いている途中で抱いた素朴な疑問を、椿咲は真那斗に訊ねてみた。


「別に普通に、このうさぎと一緒だ」


 真那斗は表情も少しも変えずに、何でもないことのように低い声で答える。


 残酷な椿咲の空想は間違いではなく、可愛らしい寝顔で眠っていた宇迦尊は、もうすぐばらばらの肉塊になる運命にあった。

 そしてその肉を口にするのは、他ならぬ椿咲なのだ。


(宇迦様はうさぎを食べて、うさぎのように殺されるのですね)


 椿咲は今日の朝食を楽しみにしていた宇迦尊の顔を思い出して、神妙な気持ちになった。


 死んでも蘇ると言ってもまったく同じ存在としてではわけではないはずで、幼く微笑んで椿咲の名前を呼んだ宇迦尊はきっと永遠に戻ることはない。

 その喪失は、神を食べて死ぬ覚悟を決めている椿咲も、心が痛む気がした。


 その後、切り分けられたうさぎの肉は麺棒めんぼうで叩かれて団子状に丸められ、つみれになって大根や人参と一緒に鍋で煮込まれた。

 さらに真那斗が米を炊き、漬物も出してきてくれたので、椿咲が食べたかったうさぎ汁の朝食は、立派な形で赤漆の膳に載った。

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