第20話 恋なんてしないと思っていた

 十二年前、運命の日。


 王太子の婚約者であったミリアムが、「恋人」の死に殉じるべく舌を噛み、死にきれずに血溜まりで悶えていた光景。

 いまだにエステルの脳裏には、その場面が何度となくよみがえる。

 身を滅ぼすほどの恋情。きつい爪痕が心の柔らかい部分にくっきりと残ってしまった。ふとした瞬間に刺すように胸が痛む。


 ――私は、恋なんてしない。


 それでいて、ときどき開くその傷口からは、血の代わりに甘苦く背徳的な誘惑が染み出してくるのだ。

 一度きりの人生、あれほど激しく破滅的な恋情に溺れることができれば。

 そこに後悔はなく、奇妙なまでの清々しさがあるのかもしれない、と。


 ――恋なんてしないけれど、してみたくないわけじゃない。だけど……あのとき以来、優しかったお兄様は変わってしまった。傷を抱えたまま王太子として戦場に立ち、己の役目を全うするその姿はまるで、ひととしての幸せをすべて諦め、「役割」に生きることに徹しているかのよう。それでいて徹しきれない最後の部分で「結婚」も「後継者」も拒否し続けているようにも見えて……。それなのに、私だけが恋をして幸せにだなんて。

 

 それは、裏切り。

 許されるはずがない。

 ずっと自分を戒めてきたのに。


 * * *

 

 足の痛みを理由に、晩餐は辞退した。

 エステルの申し出はすんなり受け入れられた。長旅の疲れもあるでしょうからその方が良いでしょうと。部屋についてからアベルをはじめとした男性陣は慌ただしく去り、残った侍女たちはかいがいしく世話をしてくれた。バルテルスからついてきた侍女や侍従もいたが、到着時から全員休みをとらせているので、エステルの身の回りに残ったのはその日会ったばかりのシュトレームの面々。

 

 エステルのために用意されていた部屋は、どこもかしこも居心地よく整えられていた。

 磨き込まれて優美な輝きを放つ木製の家具。意匠の凝らされた調度品。暖炉の上に並べられた燭台や陶器も選びぬかれた一品であるのがちらりと見ただけでもわかる。花柄の壁紙やソファの布地、絨毯などは濃淡の青系で整えられ、カーテンは真紅。


「部屋着でお寛ぎください。お食事もすべてこちらに運ぶようにと陛下より仰せつかっています。今日はとにかく、旅の疲れを癒すことだけお考えくださいと」


 湯浴みを終えたエステルには、白い絹のドレスが用意されていた。裾が足に引っかからないようにと、青いリボンを腰に結ばれる。食事まで少し時間があるということで、エステルは足を軽くひきずりながら窓際へと向かった。

 付き従ってきた侍女が、床から天井に至るアーチ型の掃き出し窓を開く。そこから、バルコニーへと踏み出した。


 夕暮れ時。

 強い風が吹きつけてくる。エステルは目を細めながら、視界いっぱいに大きく開けた光景を見つめて胸を高鳴らせる。

 眼下に広がる石造りの街並。そのすべてを抱く圧倒的な木々の緑。


(あまりにもバルテルスの王宮とは違う……。本当に異国に来たんだわ。この国で、私はこれから生きていくのね)


「体が冷えますよ」


 首周りから肩へと、大きな厚手のショールであたたかく包み込まれる。エステルは背後から響いた声の方へと顔を向けた。

 唇に微かな笑みを浮かべた青年王の姿がそこにあり、目が合っただけで体が硬直してしまう。


「お忙しいのでは」

「もちろん、城を空けていた間にたまった仕事はあります。せめて食事くらいは一緒にできたらと。足の具合はどうですか。支えは必要ありませんか」


 さりげなく、掴みやすいように腕を軽く浮かせて待っているアベル。掴むべきか否か。エステルは、中途半端に手を伸ばしたまま、躊躇した。

 くす、とアベルは笑うと一歩距離を詰めてくる。びくりと肩を震わせたエステルを見下ろし、優しい囁きを落としてきた。


「やっぱりエスコートはまだ自信がありません。部屋の中まで、この腕で運んでも良いですか。まだ景色を見ています?」

「はい……ええと……、どうしましょう」


 エステルは、なんとか受け答えはするものの、自分が何を口にしているかもわからないまま胸の前でショールの合わせ目握りしめ、俯いた。


「エステル様、先程から急に俺の目を見ませんね。どうしましたか」


 響きの良い低音に、いたたまれないほど追い詰められる。


(どうしましたか、って。私が私に聞きたいです。陛下の顔を見るのも、声を聞くのも、全部とても緊張するんです。自分が自分ではないみたいに)


 思い余って、エステルはアベルをなんとか見上げて、言った。


「心臓が壊れそうなんです。ずっと鳴ってて」

「それは正常ですよ。止まるのは死ぬ時です」


 心の声を聞かないように視線を唇のあたりにずらすも、軽く開いて笑った口元に仄かな色気を感じて、さらに落ち着かない気分になる。集中力が飛んでしまったせいか、思ったままのことが素直に口をついて出た。


「心臓が痛くて、いまにも死にそうなんです。あなたの顔を見たり、声を聞いたりすると……」

「死因が俺ですか。困りましたね。治療法はなんだろう。王妃になる前に死なれたら困りますし、末永く長生きをして頂きたいです。まずは目を瞑ってみてください。実はいまその目で見られただけで俺も死にそうなんです。上目遣いって、こんなに可愛いんですね。違うな、エステル様が可愛いだけか」


(心の声を……、聞かないようにしているのに。全部喋ってしまっていませんか?)


 動揺しながらも、言われた通りに目を瞑る。この上、心の声にも追い詰められたら冗談ではなく倒れてしまう、その一心で。


「……バルテルスの男どもが腑抜けで良かった。こんなに可愛いひとが目の前にいて誰も手を出さなかっただなんて」


 不穏な呟きが耳元をかすめ、体を力強い腕に抱き上げられる。その腕や胸、触れ合った部分から伝わってくる固く引き締まった感触と、ぬくもり。ほっと息を吐き出して目を開ける。

 狙い定めていたかのように、告げられた。


「どうか、この顔にも声にも慣れてください。子どもの頃とは違いますが、間違いなくこれがいまの俺です。苦手ですか」

「苦手といいますか……。落ち着かないんです。慣れてないからでしょうか」

「おそらくそうだと思います。慣れるように、これからできる限り長い時間一緒に過ごしましょう。本音を言えば片時も離れたくありません。あなたとともに眠りに落ち、一緒に朝を迎えたい。早く式を執り行わなければ」

「はい」


 返事をしてはみたものの。どうにもうまく言いくるめられた感がぬぐえず、エステルは付け足すようにそーっと尋ねてみる。


「あなたの私への感情は……、姉に向ける弟のようなもの、ですよね?」


 こっそりと見上げていると、青い瞳を炯々と光らせたアベルが見下ろしてきた。


「これでもそう見えるなら、まだ足りないということですね。わかりました。今は男としてあなたを思っていると、もっとわかりやすく伝えるように工夫します。俺はもう、あなたに対しては本当のことしか言いません」

「男として」

「はい。俺はあなたに再会した瞬間に、もう恋に落ちている。同じ場所まで来てください。そこから二人で始めましょう。逃がさない」


(恋なんて……)


 エステルが直視せず、逃げたいと思っている感情を、アベルは惜しげもなく晒してくる。

 今の彼ならば、もしエステルが「心の声」が聞こえるのだと打ち明けても、「どうぞ聞いてください」と言ってくるのかもしれない。それほどに、裏表のない切実な表情をしている。


(恋なんて、しないと思っていたのに)


 気が遠くなって、全身の力が抜ける。腕の中でぐずぐずに溶かされてしまったかのようだ。

 アベルは軽くエステルを抱き直すと、不意に甘さを消し去って告げた。


「あまり時間がありません。食事にしましょう。今晩はこちらにもうお邪魔することもありません。どうぞゆっくりお休みください」


 その事務的な口調に安堵したところで、続けて耳元に唇を寄せて低い声で言ってきた。


「万全の準備をしているつもりですが、どこに漏れがあるかわかりません。大公の手の者も王宮内にはたくさんおりますくれぐれもお気をつけください」


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