第28話 恋はひとを饒舌にする
「ほんのちょっとだけ遅かった、けど、まだ追いかければそのへんにいそうだから、追って。はやく。おねがい。ひよこになっちゃう前に……。陛下が。ひよこになる前に」
泣き笑いのような表情で頬をひくつかせるイグナーツを前に。
侍女服を隙無く着こなしたエステルは軽く首を傾げた。
(陛下がひよこになる……? どういう意味でしょう。陛下がひよこ? ひよこってあのひよこ?)
シュトレームでは「ひよこ」という言葉には何か特別な意味でもあるのだろうか、と必死にこれまで読んだ文献や聞きかじりの知識から思い出そうとするが、何も思い浮かばない。これからこの国の王妃になろうというのにこんなことではいけないと落ち込みかけた。すぐに、そんな場合ではない、場の空気を変えねば、というその一心で口を開く。
「陛下がひよこになったら、きっとお可愛らしいひよこでしょうね」
「エステル様はいったい何を言っているんです? 可愛さなんか為政者には不要ですよ?」
瞬殺。
イグナーツの苛烈なまなざしにあてられて、エステルは「申し訳ありません」と深々と詫びた。やはり、知ったかぶりすらできない状況で下手に話題に食い込もうとするべきではなかった。浅はかな自分が悪い、と反省。
その横で、エリクがぼそっと言った。
「そもそもなんでひよこなんだ? ひよこと陛下って何か関係あるのか?」
まさにエステルが疑問に思っていたことを口にしていたが、イグナーツは悩みが深い横顔をさらして首を振るばかり。
「ひよこはもう良い。私はいま、珍しく計算違いをして、これでも落ち込んでいるんだ。陛下のエステル様愛を見誤っていた。あそこまで追い詰めてしまったらもう何があってもおかしくない……。はやくエステル様から陛下へ口づけのひとつでもしてもらわないことには」
陛下がしんじゃう……うう、と涙声で訴えかけられて、エステルは目を瞬いた。
「私から陛下へ、ですか? 陛下からされる分には慣れてきましたが、私からだなんてうまくできるでしょうか。前に一度試みたことはありますけど、ド下手ですよ、なんといいますか」
「おっと……? 聞き捨てならないのろけが飛び出しているけどどういうことなんだこれは。もう少し詳しく」
イグナーツからは嘘っぽい涙目を向けられる。妙な圧を感じながら、エステルは目を逸しつつ答えた。
「詳しくも何も……。陛下の好意の示し方ってすごくまっすぐですよね。出会った当初は私の方が主導権を握りつつ関係を構築していかねばと思っていたんですけど、いつの間にか逆転していて。あ、ほら、恋って先に好きになった方が負けとか、追いかける方が不利って聞いていたんですよ、いままで。だけど陛下を見ていると全然そういう感じがなくて。『あれ? もしかして私の方が陛下のことを好きで、追いかける側なのでは? いつの間にか負けていたのでは?』なんて思ってしまって。でもたぶん、そんなことを私から言っても、陛下は『俺の方が好きに決まってますよ(笑)』なんて言うんじゃないかと……。だって陛下、顔を見ればいつもそんなことばかり……ええと、つまり顔に書いてあるので、もうなんといいますか。私も、あの目に見つめられるだけで足がふわふわしてしまって結局いつも何も言えないですし。あら?」
辺りが静まり返っていることに、エステルはようやく気づいた。
イグナーツ、エリクの兄弟が腹痛でも覚えているかのように呻きながらしゃみこみ、腹をおさえたり頭をかきむしったりしていた。
(あっ……、いつも思っていたけど、誰にも聞かれることもなかったし、話すこともできなかったことを、つい言ってしまいました……!)
もしかして口をすべらせていらないことを言ったのでは、と今さら気づいたエステルだったが、エリクが良い笑顔で頷きながらフォローしてきた。
「恋はひとを饒舌にするんです。好きなひとのことは聞かれずとも話題にしたい。わかります、わかりますよその気持ち。おおいに語ってください……」
一方、イグナーツは俯いたまま小声で喚いていた。
「わからない……。わからない……。これでなんでこの二人の仲が進展しないのか、全ッ然わからない。どうして? 何が起きてる? 私がおかしいのか? もうだめかもしれない。ハハッ、引退かな」
「何をそこまで落ち込んでいるのですか?」
乾いた笑いが心配になり、エステルもまたその場にしゃがみこむと、イグナーツの顔を正面から見ようとする。
そのタイミングで、「陛下、いましたよ」とダニエラの声が響いた。
三者三様、草地にしゃがみこんでいた面々が素早く立ち上がる。
息を切らせながら走り込んできたダニエラは、三人を見回して肩で呼吸を整えながら言った。
「ミゼラ大公のご令嬢、アンナ嬢がご一緒です……! ばったり会って、陛下が意気消沈していたのを見かけて何かと絡んでいます、大変です。アンナ嬢はずっと陛下に懸想していたんです。ここぞとばかりに何をするかわかりません。エステル様、早く陛下のところへ急いでください……!」
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