第29話 道の半ばで
エステル様、エステル様、と名を呼ばれて侍女の姿で王宮を走り回る。
(自分であって、自分ではないような……。こんな形でこの国のひとに必要としてもらえるだなんて)
できることをしようとか、しなければならないだとか。未来の王妃としてふさわしい仕事ぶりで周囲に受け入れられなければ、と凝り固まっていた考えから、ふっと自由になった感覚。
十二年前。
バルテルスの王宮で孤立していたアベルの元へ、エステルは周囲の反対を押し切って向かった。それが王女として自分のなすべきことなのだ、と。
侍女の姿となって。
笑うのも、はしゃぐのも、「王女」でいるときより自由で、アベルとはずいぶん楽しく遊んだ。
その時のことを、忙殺されているアベルにも少しだけで良いから思い出して欲しい。エステルがイグナーツ発案の「ドキドキ一日侍女体験」にのってみた理由は主にそこにあった。
それなのに、何故かアベルには全力で逃げられ、追いかけることになってしまっている。
おそらく自分は何か失敗したのだろう、と思った。その一方で、この追いかけっこが妙に楽しく感じているのもまた事実。
(もしかして、陛下も息抜きがてら私と「王宮全域かくれんぼ」をしたいのでは……? 大きくなっても可愛いところがおありですね……!)
エステルは、ふふ、と笑みをもらしながら駆ける。隣を走るイグナーツは、大変何か言いたい顔をしてエステルを横目をうかがっていたのだが、エステルは一切その視線に気づかなかった。
「もう少しです、さきほどはあの辺で……」
遅れて後ろを走るダニエラが、廊下の曲がり角の前で減速を促す。曲がり切る前に足を止め、全員で体を少しずらして腰をかがめたりしゃがんだりと場所を融通しながら顔を半分だけ出すと、その向こう側をうかがった。
* * *
「陛下、いつになったら敵国の女をこの王宮から追い出してくれるんです? バルテルスの王女を王妃に頂くだなんて、旧来の家臣が決して認めていないのはご存知でしょう。ただでさえ、押せば勝てた戦争を放棄したことで陛下への反発も高まっているというのに」
扇を開いて口元を隠しながらアベルに詰め寄っているのは、艷やかな栗色の髪に、いかにも勝ち気そうな目元の少女。赤地に花柄の美しいドレスを着こなしており、艶やかに咲き誇る薔薇のような存在感がある。
アベルと少女は廊下の交わる、天井が高く開けた空間で向き合っており、一行からはちょうど二人の横顔が見える位置関係で立っていた。
胸元まで詰め寄られたアベルの表情は、完全に無。一切の興味のなさそうな顔で少女を見下ろしていたが、少女が言い終えたのを見て取ると、実に冷ややかな口調で答えた。
「バルテルスは敵国ではない。戦争は終わっている。勝敗はつけない形だが、これ以上長引けば双方の国の疲弊が取り返しのつかないことになるところだった。たとえ形の上で勝っても、得るものは少なかっただろう。この件に関しての議論はすでに尽くしている。いまさら反発するなど、時流が読めないにもほどがあるな」
冷静な判断力と言動で「冷徹王」の異名を取るアベルらしい、取り付く島のない説明。
一方、少女はまったく怯むことなく、再びアベルに強い口ぶりで詰め寄る。
「そうは言いますけど、陛下。であるならば、今は国力の回復につとめる時期ですよね? いたずらに国民感情を刺激せず、同国人から王妃を選ぶべきなのでは? バルテルスの……、しかも信じられない年増の行き遅れの姫君などもらいうけてどうするのです。『不要な王女を戦後処理のどさくさで押し付けられた』と、陛下のその軟弱な姿勢が批判に結びついているのはご存知ですよね?」
アベルは無言のまま、冷笑を浮かべた。ただでさえ水際立った美貌、まとう空気には危うさがあり、ひとの目を釘付けにする。
イグナーツはため息交じりに「ひよこになってなくて良かった。陛下だ」と呟きつつ、エステルに目を向けた。
壁の角に手をかけ、顔を半分のぞかせて二人の様子を見ているエステルの表情は、真剣そのもの。イグナーツが、こそっと声をかける。
「一応言いますけど、陛下、いま怒ってますよ。見ればわかります。エステル様にああいう形で言及されて、許すことは絶対にないですから」
エステルは「はい、ありがとうございます」と落ち着いた態度で応じてから、続けた。
「とても興味深いです。私の存在をよく思わないひとの、生の声」
話す間に、さらに少女はアベルに言い募る。
「どれだけの国民が、バルテルスの蛮人の手にかかって命を落としているとお考えですか。無念を抱えた者たちは、決して政略結婚で押し付けられた王女を認めません。その上、王女が王子を生み、この国の次代の王となることがあっては……。バルテルスに内側から侵略されるようなものです。陛下は騙されているのです。もし本当に平和的な解決を目指すのであれば、せめてバルテルスにもこちらの王族なり貴族なりを嫁がせるべきでしょう!?」
そこまで聞いて、エステルは独り言のように言った。
「ただの言いがかりではなく、筋が通っている部分もありますね。この先私と陛下の子がシュトレームの王として立ったとき、血縁関係をたてにバルテルスから口出しされることを脅威に思う方はいるでしょう。私はそのような形で『実家』に便宜をはかるつもりは一切ありませんが……、だからといって父や兄と縁を切ることもありません。繋がりを断つことでシュトレーム人に受け入れられるのが目的ではなく、そもそも繋がりを強固にするために来ているわけですから。私に求められる立ち回りは、『祖国と仲は良好だけど口出しはさせない』こと、そこは譲れません」
「エステル様が賢い女性で大変うれしく思います。あなたがその志をこの先も失わないでいられるように、私はよくお仕え申し上げましょう」
イグナーツは胸に手を当て、満足そうに微笑む。横で聞いていたエリクが「しかしなぁ」と口を挟んだ。
「敵国人として王宮で孤立することを恐れず、実家との仲を維持しつつも頼り切らず。かつての敵国のために身を粉にして尽くせる女性なんて、そうそういるだろうか……。バルテルスにはエステル様がいてここまで来てくれたわけだけど、同じような人材がシュトレームにいるかというと、ちょっと思いつかない。たしかルーク王太子殿下も、ご結婚はまだでしたよね。こちらの王族か貴族を嫁がせるべきというアンナ嬢の意見は、実際に停戦協定のときに何度か出ていたわけですが。こちらに人材がいれば今からでも」
顔を上げることなくその言葉を聞いていたエステルは、ゆっくりと瞑目した。
「兄は……。陛下が私に心を砕いてくださっているように、兄がその女性を大切にしてくれるのなら困難にも立ち向かえるかもしれませんが。それは難しいので、その案をバルテルスは飲めなかったんだと思います。夫たる人物からの協力も得られず、真に孤立するというのであれば、たとえどれほど志のある女性をお迎えしても、心がもたないかもしれません。人間であれば落ち込んだり、折れたりします。迷いがあれば、道を誤ることもあるでしょう。それを『弱さ』と責めても何も解決しません。しませんが……、立場のある身であればあるほど、その弱さは戦争のような厄災を招く恐れがある。断罪が必要になります」
声が、暗い。
イグナーツは何か言おうとしたかのようにエステルに視線を向けた。その言葉を待たず、エステルは立ち上がる。
一瞬前までの暗雲を払うように、一同を見回してにこりと微笑み、朗らかに宣言した。
「王宮全域かくれんぼ、せっかく陛下を見つけたことですし、つかまえてきます!」
言うなり、角から飛び出してアベルの方へ走り寄っていくエステルの背を見送り、イグナーツが首を傾げながら呟いた。
「かくれんぼ……? つかまえたら鬼さん交代だよね。交代した途端に、鬼になった陛下にエステル様食われてしまうと思いますけど……。ま、いーか!! 問題なし!! 世はこともなし!!」
呵呵と笑った。
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