第19話 一撃必殺の、笑顔
伏せられたまつ毛の長さ。精巧に整った美貌。
唇を離し、目を見開いたアベルは、切実な光を宿した青の瞳でエステルを見下ろした。
「あのとき、顔を見るまでは大丈夫だったんです。エステル様がどういう思いでこの結婚の申し出を受けてくださったのかわからないので、あまり期待しないようにしようと、身の程をわきまえていたので。周りの者に本心を悟られぬように、心にもないことを言うのも平気でした。『王女を愛するつもりはない。お飾りだ』と嘘を言えましたし、自分はうまくできるつもりでもいました」
アベルは左腕でエステルの背を支えつつ、もう一方の手を頬から顎に添えて顔をまっすぐに見下ろしながら言った。
「ですが、いざあなたを前にしたら、もうだめでした。エステル様に向かって、冷たい言葉を浴びせかけるだなんてとんでもない。それだけでなく……さきほどのミゼラ大公のような、何を企てるかわからぬよう相手に、あなたをできるだけ近づけたくないと思います。あなたが不当に貶められる言葉をぶつけられるだけでも、俺が耐えられません」
心の声を聞くまいと、意識を肉声に集中しつつ、エステルはアベルの目を見ながらも素早く答えた。
「私はそれほど弱くありません、心配しないで。陛下は……、子どもの頃から、あまり表情が動きませんでしたね。そういった、感情が表にでないところは、為政者として非常に長所だと思います。でも、さきほど大公に面と向かったときには、不審感を隠しきれていないように見えました。普段は抑えていられるあなたが感情的になるからには、相応の理由があると私は理解しました。そういうときは、全部自分で対処しようとせず、一度私に任せてくれても良いんです」
「エステル様に、任せるとは」
ほんの少し、首を傾げていぶかしげな目で顔をのぞきこまれる。そこに誰に頼ることもない寄る辺なさを見て、エステルも目を細めた。
(陛下は、とても立派な青年に成長されたと思っていたけれど、ときどき寂しそうな瞳をしますね)
エステルもまた手を伸ばし、アベルの頬に触れた。アベルは少しだけ顔を傾け、その手のひらに頬を軽く寄せる。無意識にすがりつくような仕草。形の良い唇が微かに震えるのを見ながら、エステルはゆっくりと言った。
「その年齢で、難しい局面に立ち会い、判断を下してきたことでしょう。王宮でも、戦場でも。そういうひとを私は知っています。兄を……。兄は、今でもあまり笑えません。そばにいても、何を考えているのかわからないところがあります。でも、あなたは兄とは違います。あなたは、人心掌握は難しいと言っていましたが、そうでしょうか。あなたの周りの方々はきっと、あなたが思っている以上にあなたのことを見て知って、心を開いています。人に恵まれていますね。そういった人材が集まるのは、あなた自身の生き方が認められているからです。たしかにまだ少しの敵はいるかもしれませんが、私はこの場で自分を偽ることなく、安心して生きられると確信しています。ここに私を招いてくださってありがとうございます」
アベルは目を閉ざすと、両腕でエステルをきつく抱きしめた。身長差のあるエステルの顔の横に顔を
「王妃になって欲しいというのは、俺のわがままなんです。エステル様以外に考えられなかったけれど、俺の生き方に巻き込むことが、エステル様の幸せなのか」
挫いた足に力を込めないように気をつけながら、エステルも両腕を背にまわす。
「そんなに不安そうにしなくて大丈夫ですよ。あなたひとりが負うことではありません。一緒に幸せになりましょう。そうだ、良いことを伝授してさしあげます。感情を露わにしないところはあなたの優れた点ですが、そういう方にはここぞというときに使える技があるんです」
「なんですか」
アベルの両腕に両手をのせ、少し二人の間に距離を置き、エステルはけぶるように細められたアベルの青い瞳を見上げた。
満面の笑みを浮かべて、告げる。
「私と同じ表情をしてみてください。ほら、私をよく見て」
永遠のような一瞬、見つめ合う。
ふっと、アベルは小さく息を吐きだした。目元に柔和な笑みを浮かべて、唇を優しく持ち上げる。
「エステル様、小さくなりました?」
「陛下が大きくなったんですよ?」
(何を、突然)
目を瞬いたエステルに対し、まなざしをひどく愛しげに優しくして、アベルは笑った。
「あのときエステル様は、御自分を大人だと言っていましたが。まだ十六歳だったんですよ。いまの俺より二歳も下で。それなのに、一生懸命敵国の子どもを守ろうとしていましたね。侍女のふりをしたり、お菓子をたくさん……」
話しているうちに何かを思い出したように、横を向いてくす、とふきだす。そのまま、視線を流してくる。
十二年。
過ぎ去った年月が一瞬、消えた気がした。とにかく、「自分がこの子を守らねば」と信じ込んでできる限りのことをしていた十六歳の頃に気持ちが戻る。
同様に、目の前の青年のアベルに、少年の面影を重ねようとした。けれど幻の少年は現れず、何度瞬きをしてもそこには、見上げるほどに大きく、涼し気な瞳に楽しげな煌めきを浮かべた青年の姿があるばかり。
アベルが正面から見てきて、まっすぐに視線が絡んだ瞬間、はにかむようににこりと微笑まれる。
心の声が聞こえる、聞こえないなどといった些末なことが意識から遠のき、何度か重ねた彼の唇を視界に認識した途端、背筋が震えた。
(十六歳の頃に今のこの方に出会っていたら、身も世もなくひかれてしまっていたかもしれない。この瞳に心を奪われ、自分のすべてを捧げたいと願うほどに。ミリアム嬢の、ように。……分別のある年齢になっていて、良かった。私は、この方に恋などしない。恋はしないの。姉と弟のように、それ以上の、それ以外の何ものでもなく)
闇雲に心の中で自分に言い聞かせながら、エステルは瞬きを繰り返し、視線をさまよわせる。
「私が……小さくなったのかしら?」
返事はないまま、ふっと支えがなくなり、体を両腕で抱き上げられる。エステルを胸元に引き寄せながら、アベルが目を落としてきた。
「俺が大きくなったのでは?」
合わせた視線を外させないまま、アベルは茶目っ気のある笑みを浮かべて、すかさず言い添えてきた。
「エステル様のように笑うのはまだ難しいようですが、こういうことでよろしいでしょうか」
「こういう、こと、というのは」
「さきほど、俺を笑わせようとしていたでしょう? いまは『ここぞというとき』だと思ったんですが、合っていましたか?」
「アベル……」
子どもの頃呼んでいたように、アベル殿下、と言いかけた。最後まで言えずに、絶句してしまう。
軽々と抱きかかえてくる力強い腕。品の良い微笑を浮かべた端正な面差し。限りなく優しいまなざし。
(これは誰? 本当にあのときの少年と同じひとなの?)
「感情を出すのはたしかに、あまりうまくないんですよ。ですが、エステル様が関わると抑えがきかなくなるみたいです。困りました。この後俺はどういう表情をすれば良いんでしょう。教えていただけますか」
「いまのままで……、大丈夫かと」
「エステル様の好みという意味ですか? そうだと嬉しいです」
……たすけて。
エステルは優しく追い詰めてくる青年から逃れるように、辺りを見回す。
この場には他にも誰かがいたはず、と。
たしかにいた。少し離れた位置に、数人固まっていた。
抱き合って小声で騒いでいる侍女たち、涙を流してしきりと頷いている騎士団長、「ほら、みんな、撤収、撤収!」と手を振り、全員を追い払おうとしている赤毛の宰相殿。
その背を見つめると、背中に目がついているのかというほどの鋭さで、唐突に振り返ってきた。エステルと目が合うなり、笑顔で頷きかけてくる。そのまま、両腕を広げて皆を背後に押しやり、戦線を後退させようとしている。それでいて、全員の目が睦まじく寄り添うアベルとエステルに向けられているのだ。
(見ていないで、たすけて。陛下がどういうわけか私に「ここぞというとき」の必殺の一撃を加えてくるんです。どういうことですか? 私が何をしたというんです。助けてください。このままだと、私……)
心の中で叫ぶエステル。
届くはずもないのに、察したかのように赤毛の宰相、イグナーツがようやく助けを出してくれた。
「陛下、予定が押します。エステル様の足の具合も確認した方が良いですし、お部屋へと急ぎましょう。続きはまた改めて、夜にでも。次は止めません」
(これは助けになってます? とどめではありませんか?)
エステルはアベルの腕の中で声にならない悲鳴を上げ続けていた。
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