第10話 舌禍を招く舌ならば

「お前のような女をあばずれというのだ、ミリアム」


 あのルークが、こんなに冷たい声で誰かを罵る場面を目の当たりにする日がくるとは。

 言われたミリアムといえば、潤んだ黒い瞳から涙を一筋流しながら、ルークに微笑みかけていた。


「そのような言葉、聞いたこともありません。下賤の者の使う表現なのではなくて」


 互いを拒絶する応酬。

 ああ、壊れてしまったのだ、とエステルは痺れた頭の奥でぼんやりと思う。壊れてしまったのだ。光に満ちた過日の婚約者同士の在り方が。

 ルークは表情を動かすこともなく、無感情な瞳をミリアムへと向ける。


「お前がマチスに惹かれていたのは気づいていた。だがあのマチスが、お前の誘いにのるとは考えられない。妄想で死者を貶めるのはやめろ。マチスは大事な俺の友人だ」


 ふ、ふふ、とミリアムは笑みをこぼす。やがて弾けたように笑い声を響かせて言った。


「可哀そうなルーク殿下。大事な友人の心をあなたはついに知ることはなかったのですね。マチス様は私におっしゃいました。『愛している。君のためにこの戦争を食い止めてみせる。その功績をもって、君への求婚を陛下と殿下に願い出るから待っていてほしい。いつか私たちが陽の光の下で、誰の目を気にすることもなく愛し合えるその日まで』と。ああ、おかしい。知らぬは殿下ばかり。その目は節穴ですか。私とマチス様の何を見ていたというのです。愛が、愛があったのです」


 誰も動かない。嘘やはったりというにはあまりにも、ミリアムの語りは確信に満ちていた。いまや鋭い刃となった言葉の切っ先はあやまたずにルークの胸に食い込み、その心を残忍に刺し貫いているに違いない。

 揺らめかない、凍てついたまなざしはそのままに、ルークはミリアムを見つめる。


「俺の目が節穴だというのならば、お前のよく喋る舌は『舌禍』そのものだ。これ以上の災厄を招く前に噛み切ってしまえ」

「殿下は私に死ねと? それも良いかもしれません。マチス様を失った私には、もはや生きる意味など」


 ミリアムは言い終え、ぐっ、と口の中から異音を漏らした。「んん……」とくぐもった声とともに、口の端から赤い血が流れ出す。その血をぬぐうこともなく、口の中の何かを噛み締めながらルークを見ていた。両方の目の縁に透明な涙が盛り上がり、溢れ出した。


(噛んだ……)


 一言も口をはさむこともできぬままエステルは立ち尽くし、その光景を見ていた。

 ルークは長いまつ毛を伏せ、固い声音で厳然として告げる。


「舌を噛み切ったくらいでは死なぬ。そもそも、おいそれと噛み切れるようなものではない。だが、ちょうど良い。その災いの源、中途半端に残すくらいなら俺が切り落としてやろう。誰かナイフをここへ」


 右の手のひらを差し出したルーク。

 少しの沈黙の後、近衛兵の制服を身に着けた茶色髪の青年が進み出た。


「殿下の手が汚れてしまいます」

「あれは、いまはまだ俺の婚約者だ。この手で不貞のけりをつける」

「いけません。その役目は私にお命じください」


 跪いて、ルークを見上げる。

 軽く首を傾げるようにして青年を見下ろし、ルークは短く告げた。「やれ」


 青年は立ち上がり、涙と血でその白い花のかんばせを濡らしたミリアムの前に立った。ごく小さな声で「中途半端に残すより、切り落としてしまったほうが治療が楽ですよ。喋るのは難しくなることと思いますが。さあ、いつまでも口を閉ざしているのもお辛いでしょう。噴き出した血で喉をつまらせますよ」と囁きかけた。その手には、いつの間にかナイフが握られている。

 唇を閉ざしたまま、ひっとミリアムが息を呑んだ。ごぽっと重い水音とともに、口から血が溢れ出た。


 硬直していたエステルはそこで我に返り、横に立っていたアベルに腕を伸ばす。自分の体に顔を押し付けるように抱き寄せる。「見てはだめ。聞いてはだめ」頭を抱え込んで、その耳元で言いながら、自らの体で視界を遮るようにミリアムに背を向ける。


 背後で悲鳴と、もみ合うような鈍い音、嘘のように軽いぴしゃりという水音。身の毛のよだついくつもの異音。衣擦れ。


「あ……ああ……うう……」


 呻きを、エステルは背で聞いた。

 その横を、先程の近衛兵が通り過ぎて、ルークの元へと向かう。横目で確認した青年の右手は袖まで血に染まっていた。

 手に握られた赤い血塊のようなものに視線を落とし、ルークは頷く。

 顔を上げて室内を見回してから、固い声音で宣言した。


「ミリアム嬢は、マチスの死に錯乱して舌を噛み切る方法で自死をはかった。舌を失ってしまったせいでその言い分はもはや聞くことは叶わぬ。。もちろんこの場に居合わせた者も、何も聞いていないだろう。よもや、聞いてもいないことをどこぞで吹聴することなど無いだろうが……。もし私の耳に、私やミリアムの名誉を傷つける者がいると報告が上がった場合は。噂好きは、舌禍を招くことをよくよく思い知らせてやろう」


 エステルはルークの視線を追いかけて、その瞳が何を映しているか確認してしまった。

 獣のような呻き声を上げて、口を両手でおさえたミリアムが床に転がっていた。

 アベルが身じろぎをしながら「エステル」と小声で呼びかけてきたが、エステルはなおさら腕に力を込めて黙らせた。そうやって、自分の体でアベルを隠していなければ、さらに悪いことが起きてしまう気がした。


 ルークは室内にいた侍女に向かって落ち着き払った様子で「ミリアム嬢の手当を」と声をかけ、兵たちには「誰か、医者を」と命じる。

 それから、ゆっくりとエステルに目を向けた。

 視線がぶつかった。

 たしかに目が合っている。それなのに。


“          ”


(心の声が……聞こえない……。お兄様は、心を、閉ざして……)


 完全な無音。心を閉ざしたか、失ってしまったのかと錯覚するほどの。

 ルークは感情の浮かばぬ目でエステルをじっと見て、その視線をやや下へと向ける。エステルの腕の中にいるアベルを見ながら口を開く。


「さて。次はアベル王子の番だな。エステル、王子をここへ。私に寄越しなさい」



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