第11話 傷を負った王女と、心を失った王子

 お母さまはね、とアベルは暗闇を払う凛とした声で話し始めた。


「王宮に勤める侍女だった。といっても、元々は平民の出で、見た目が綺麗だから貴族に拾われたんだって。教育は最低限で、とにかく王宮に入り込んで、王の目にとまるようにと言われて。母は、まじめに働いているうちに、本当に王に気に入られてしまって、俺を産んだ。だけど、その身に貴族の血の一滴すら流れていないとずいぶんいじめられて……。俺には、『身分が下の者にいじわるするような人にはならないで』とよく言っていた。死ぬまで」


 灯りをつけぬ、アベルの部屋。窓からの星明かりはあるものの、調度品の大部分は影となって沈んでいる。

 アベルはベッドに腰掛けており、エステルは離れた位置にあるソファに座っていた。二人きりで夜の部屋で過ごすにあたり、じゅうぶんな距離を置くことに注意を払っていた。


「だから俺は、ルーク様とエステル様の関係を見たときに、エステル様はルーク様の『仲の良い』侍女なのかと考えていて……。王に気に入られた俺の母のように。ご兄妹とは思わず」

「その件に関しては、殿下を欺く形になり申し訳ありません。はじめから打ち明けていれば良かったのですが」

「べつに、怒ってるわけじゃない。そうじゃなくて、少し安心しているんだ。エステル様がこの国のお姫様なら、いま以上にひどいめには合わないだろうって。少なくとも、王子とは名ばかりの俺とは違って」


 そこまで言って、アベルは口をつぐむ。

 現在の二人の状況は「幽閉」である。処遇が決まるまで、アベルを牢に放り込むと息巻く重臣たちに、エステルはアベルを両腕で抱きしめ、絶対に離れないと言い放ったのだ。


 * * *


 空気を震わせる怒声。目を合わせた者たちから押し寄せる憤怒の心の声。

 凄まじく緊迫した空気だったが、エステルは断固として逆らった。


「マチス様の死への報復として、アベル様の待遇を落とすだなんて、ただの八つ当たりではありませんか。分別ある大人の判断ではありません。シュトレームと我が国が戦争に突入したのだとしても、敵国の王子だからという理由でまだ子どもであるアベル様を踏みにじるなど、恥ずべきことです。目を覚ましてください。いまのあなたたちは、怒りという感情の奴隷です」


 アベルを虐げ、傷つけても、状況は何一つ変わらない。それは「自分の気を紛らわせるためだけに死ね」と、アベルの命を奪おうとしたミリアムと同じ。ミリアムは、真正面から顔を合わせた侍女姿のエステルに気づくこともなく、自らの悲恋を声高に叫んでいた。

 あげく自分の流した血溜まりに倒れ伏してドレスを汚しながら悶えていた。

 あのときエステルは何もできぬまま聞いていた。哄笑、悲鳴、呻き。

 日常を決定的に突き崩して引き裂いたひずみは、広がり続けている。

 その最たるもの、表情を失った兄王子のルーク。


 事態を見守っていたルークは、アベルを離さぬエステルの前に立ちはだかり凍えた声で告げた。


「であれば、お前が殿下を見張れ、エステル。それがお前の仕事だ。侍女の真似事もずいぶんうまくなったじゃないか。自分が王女であることを忘れたようだが、ちょうど良い。お前のようなあばずれはバルテルス王家には不必要だ」

「お兄様……!」


“          ”


 目を合わせても、もはやその心の声は何一つ聞こえることがない。

 ルークの表情は、少しも動くことはない。


(ああ、お兄様は、心を失ってしまわれた。これは一時的なものなの。それとも)


「殿下は子どもとはいえ、綺麗な少年だ。それほど気に入ったか、その顔が。よもやそこまで肩入れするとは思わなかったぞ。お前の嫁ぎ先などもうどこにも無いだろう。汚らわしい。お前も、ミリアムも……」

「私と殿下はそのような。アベル殿下はまだ子どもなのです……! お兄様の邪推のほうが、どうかしています!」


 ルークは微動だにせずエステルの訴えを聞き流し、ミリアムの舌を切り落とすことを命じたとき同様、兵に対して冷淡な声で命じた。


「離れたくないという者をわざわざ離す必要はない。二人まとめて閉じ込めておけ。殿下が二、三日飲まず食わずでも死なないのは確認済みだ。エステルとて自分で望んだこと、甘んじて受け入れるだろう。その間に、我々は殿下の処遇を決める」


 そこでアベルがもがいた。エステルが力を緩めると、その腕の中から飛び出す。エステルが見つめると、視線がぶつかった。


“エステル姉さまは王女さま? ルーク、兄さまと、けんかしないで……”


 決して声に出せない、心の中だけの呼びかけ。

 アベルはすぐにエステルではなく、ルークの方へと顔を向けて、切実な形相で見上げて言う。


「ルーク殿下。俺はどうなっても構いません。ですが、エステル……様は」

「勘違いするな、アベル殿下。お前の首に、なんの価値もないのは知っている。『自分はどうなっても構いません』というのはな、殿下。それが交換条件になる者が口にしてはじめて意味を持つ言葉だ。よくわきまえよ、シュトレームの虫けらの子よ。二度とその声で俺の名を呼ぶな。その目で俺を見るな」


 言うなり、ルークは鋭い動きでアベルの腹につま先をめりこませて、蹴り上げた。

 うぐ、と呻きながらアベルの体は軽々と吹き飛んで床に叩きつけられる。


「なんてことを……!」


 エステルは叫びながらアベルの元へ這い寄り、細い体を膝に抱き上げる。

 アベルは目を瞑り、顔を苦悶に歪めていた。


「閉じ込めておけ」


 言い捨てて、ルークは身を翻す。振り返らず、その場を離れていく。

 痙攣のような症状を呈しているアベルは立ち上がることもできない。そのアベルを、兵が無造作に抱き上げた。そのままアベルの部屋へと向かう。エステルはもはや策もなく、その後に従い、二人で閉じ込められることを自ら選択した。

 脂汗を浮かべて苦しみ続けるアベルから離れることなど、できなかった。


 * * *


 アベルはうとうとと寝たり起きたりを繰り返し、一時間ほどで意識を戻した。

 大丈夫ですか、とエステルが尋ねると「平気です」とかしこまった声で答える。


“エステル……様は、侍女ではなく、この国のお姫様だったんだ……”


 知られてしまった事実。エステルはようやくそれを打ち明けることになった。

 部屋に誰かが訪れる気配もなく、二人きりで過ごしているうちに、互いの身の上話を少しずつ話した。ひとに見られても大丈夫なように、しぜんと部屋の中で距離を置いて座った。

 日が傾き、完全に夜になっても、ドアが開けられる気配はなかった。二、三日閉じ込めておくというのは本気のようだった。


(父上に話が伝わっていないとは考えにくいけど……。案外、王宮の中ではここが安全という判断がされているのかも。アベル殿下への風当たりが強まる中、「幽閉」は「籠城」でもあり、身を守ることにもつながる。悲観してはいけない)


 膝の上に置いた拳を握りしめ、エステルは自分に言い聞かせる。気を強く持て、と。

 それでもふとした思考の隙に、忍び寄るように否応なく思い出されるのは、兄であるルークの変容。エステルは、「心の声」を聞く能力を絶対的なものと考えてはいなかったが、あれほどまでに一切何も聞こえず、虚ろさと空白を感じる相手は初めてだった。

 ルークは変わった。これまでエステルの兄として、この国の未来を思う王太子として、彼を形作っていた何かが壊れ失われたように感じた。

 そのとき、アベルがためらいがちに切り出してきた。


「あのご令嬢がルーク様のご婚約者だったのだな。俺の父が、マチス殿を殺してしまって、その苦しみであのような」

「ミリアム嬢は……。同年代の皆様の憧憬しょうけい、それは素晴らしい女性で……」


 どこから話そうかと、在りし日のミリアムを思い浮かべてはみたものの、エステルは言葉を選びかねて絶句した。


(お兄様は、とっさに恐怖を伴う脅迫をもって、箝口令を敷いたようですが……。ミリアム嬢は、この先肉体に負った傷が癒えても、今まで通りとはいかないでしょう。お兄様との婚約は解消となるでしょうし、その後は……。なぜ黙っていられなかったのです。あなたの破滅を、マチス様が望んだとは思えないのですが。それとも、マチス様亡き後、激情に身を任せて殉じることがあなたの愛だったのですか)


 ミリアムに直接問う機会も、目を合わせることも、もう無いかもしれない。破滅に至る恋情、その末路。言い分も心もわからぬまま。

 エステルが話す気配がないのを見て取ったらしいアベルが、再び、ゆっくりと言う。


「エステル様は俺に親切にしたばかりにルーク様に見放されてしまい、嫁ぎ先もないと……。嫁ぎ先が無いというのは、結婚できないという意味だな?」

「よくご存知ですね、アベル様。ですがその件、アベル様が気になさる必要はありませんよ。私には、結婚したいという思いが最初からまったくないんです」

「なぜ?」


(「心の声が聞こえてしまうから」……いつか知りたくないことも知ってしまったときに、私が相手の方を尊敬できなくなるのが怖くて。心の声が聞こえることで、私自身が他人を信用しにくくなっているだなんて、そんな説明はできませんね)


「私が結婚するとすれば、それは政治的思惑が絡んだものとなります。好きとか相手を気に入ったという問題ではない、という意味です。王女という身分を失い、王宮の外で暮らすことになるでしょう。ですが、そうなってしまえば、国の重要な案件からは遠ざけられてしまうかもしれません。たとえば、こうして殿下にお目にかかる機会もなかったかと」

「エステル様は、国のために尽くしたいとお考えなんですか」


 暗くて、互いの姿が視認できないせいか、アベルの話し方はいつもよりずっと素直だった。こんな状況だというのに、奇妙な晴れやかさすらその声に、にじみ出ている。

 エステルはその声に励まされつつ(自分もしっかりしなければ)と思うのだった。


「私にもできることがあるのではと、信じているのです。殿下の国とはいまはこういう形でにらみ合うことになってしまいましたが、私は私で平和を決して諦めません。殿下が大人になるまでに、どうにか戦争を終わらせねば」

「エステル様はご立派です。俺も……国に帰れば力の無い王子で、そもそも帰れるかわかりませんが。ここより先、二つの国の平和のために生きることを誓います。エステル様が安心して暮らせるように」


 慈雨のように染み込んでくる、澄んだ声。


(アベル殿下のこの素直で気高い気持ちが、どうぞ心のない者たちによって折られることなどありませんように)


 願いを胸に。未来への祈りを捧げて。

 エステルは、明るい声でアベルに提案した。


「殿下、もう遅い時間です。眠ってください。明日のことは明日考えましょう」

「しかし、エステル様は。俺はベッドでなくても寝られますが」

「私、大人としては小柄です。ソファで寝られないこともありませんの。気になさらず。おやすみなさい」


 長々と議論するのは体力を失うだけと了解したのか、アベルはそれ以上ぐずぐず言うこともなく「わかった」と暗闇の向こう側から答えた。そして、さりげない調子で続けた。


「おやすみなさい。優しいエステル様に安らかな眠りと輝かしい明日が訪れますように」


 目を合わせていないので心の声は聞こえない。だが、どこからともなくその「声」はエステルの胸の内側に響いてきた。


“傷ついたエステル姉さまと、心を失ったルーク兄さまに。二人が笑える明日が訪れますように”



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る