第9話 破滅を呼ぶ恋情
耳をふさぐべきだったのか。そんな余裕はなかった。
ミリアムがタガの外れたような哄笑を響かせる間、その場の誰もが呼吸すら止めて硬直し、語られた内容を聞いてしまった。
(愛を囁いたと……。ミリアム嬢はご自分が何を口にしたか理解していますか。マチス様が、お兄様の婚約者であるミリアム嬢と通じていたというのですか。危険な要人派遣の役目に名乗りを上げた理由に、それも含まれていたのだとすれば。それは、王太子であるお兄様を、婚約者と親友であるお二人が裏切っていたということで)
年少のエステルは、兄たち三人が夜会等で一堂に会しているときは、一歩ひいて控えていた。その位置から見る三人は、いつも仲が良さそうに笑っていた。ルークとマチスがふざけてじゃれあい、ミリアムが微笑みながらたしなめる。三人の間柄だからこそ許される空気。
この国の未来を担う、次期国王と王妃、宰相候補として固い信頼関係で結ばれているように見えていたのだ。
けれどミリアムとマチスは、心を通わせていたという。
それは罪となる恋心。決して許されざる。
断罪されてしかるべき告白をしたミリアムは、しかし奇妙に居直った態度で、涙を流しながらも、笑っている。うつろに、心をどこかに置き去りにしてきたかのように。
「マチス様は死んでしまいました。あの方が一体何をしたというのです。私と愛し合ったのが罪だというのならば、私とマチス様を裁くのはこの国の法であるべきです。なぜあのような無惨な姿でシュトレームからお帰りになったのですか。なぜシュトレームの王はマチス様を……。ここで私たちが取るべき方法はひとつしかありません。わざわざこちらに出向いた使者を手ぶらで帰すことなく、きちんと手土産を持たせなくては。アベル殿下の首を」
ミリアムの美しい声には、歌うような抑揚があった。まるで演劇を目にしていると錯覚してしまう。その役どころは「愛する男性を失った令嬢」だ。
差し延べられた、蝋細工のように白く細い指先に至るまで、悲哀は完璧に表現されていた。
もはや疑いようもなく、ミリアムの心がマチスにあったのは誰の目にも明白。ルークではなく。
(死んでしまったのなら、せめてあなたは口をつぐむべきだったのです。死せるマチス様と生きているルーク兄様のために……! このことが、お兄様の耳に入ったら)
崩壊の足音。それは、とうの昔にいまこの時に向かって歩き出していたのだ。そして突如その歩みを早め、走り寄って、拳をかざして、容赦なく振り下ろしてきた。すべてを滅殺する勢いで。
大きく口を開いた絶望が、その場に居合わせた弱き者強き者に牙を突き立てその骨肉を食いちぎり噛み砕く。
エステルは、しぜんと両腕を広げて、アベルの前に立った。
ミリアムと目を合わせれば、調弦されていない楽器の奏でる調べのようなぐちゃぐちゃな心の声が流れ込んでくる。頭をかき乱すその声を遮断するようにわずかに顎に目を逸らしつつ、敢然として言った。
「殿下は渡しません。マチス様があなたの仰るお姿で帰還されたのであれば、我が国として然るべき対応をすることになるでしょう。これは国家間の問題であり、私怨でアベル殿下を害そうとする行為が許されるはずがありません。未来の王太子妃、王妃としての教育を受けてきたあなたが、そんな簡単なこと、わからないはずがないのに。兵をひかせなさい」
「生意気な侍女ね。そこを退きなさい。私が誰かわかっているなら、お前如きが口答えして許されるはずがないのもわかるでしょう。痛い目をみたいのかしら」
(ミリアム嬢……。それがあなたの本性だなんて思いたくありません。いまは混乱状態で、一時的に思慮に欠けた振る舞いを……。侍女の姿の私が、王女のエステルとも気づかず)
自分に言い聞かせながら、それでも、とエステルは唇を噛みしめる。
たとえ一時的な混乱により、マチスとの恋仲を晒し上げる妄言を吐き、エステルに暴言を浴びせかけているとしても、これだけの者に聞かれてしまった以上、すでに挽回しようのない失言である。ルークの婚約者としては不適格と、その座から降ろされるだろう。しかしそれはあくまで政治的判断。ルークの思いとは関係のない出来事。
正しい処遇の影で、ルークは信じた二人の裏切りをどう受け止めるのか。
ミリアムとエステルは黙してにらみ合う。
そのエステルの横に、アベルが並び立った。
「シュトレームに赴いていた要人が、父王の判断で
凛々しく澄んだ少年の声音。
(「俺の首には価値がない」……ご自分の命は、軽いのだと。意味がないのだと。この方の奇妙なほどの謙虚さを思えば、その根底に強い自己否定があることくらい、わかっていたのに。言わせてしまった)
もし本当にエステルがアベルの「姉」であったのなら。
いまやはっきりと敵国同士となった二国の、王子と王女という立場でなければ。
そんなことはない、私はあなたの味方なのだ、と。私はあなたを必要としている。あなたの存在は私にとって意味があるのだと。
強く抱きしめて、心の底から言っただろう。それほどに、エステルはこの短い間でアベルと友情を育んでいた。その存在を貶め、軽んじ、害そうとする悪意から守り抜きたいと強く願うほどに。
「ああ、うるさいこと。そこの侍女も、殿下も。国同士の問題だとか、首に価値がないのだとか。そんなこと、私には関係がないのよ。私は、いますぐあなたを、マチス様と同じ姿にしてあげたいの。たとえ殿下が首だけの姿になったとして、殿下のお父様であるシュトレーム王の心がわずかにも動かないのだとしても。私の気持ちはほんの少しだけ紛れるでしょう。おわかりになります?」
けだるそうに眉をひそめたミリアムに対し、アベルは「わかる」と即答した。
「あなたの心を慰めるためだけに死ねと、俺にそう言っている。それはわかるが、俺ひとりの判断でその願いに応じることはできない。事態がこうなった以上、俺の死に意味を持たせる方法をこの国の重鎮たちは考えるはずだ。俺はその決定に従う。できるかぎり、ルーク殿下のお役に立てるように……」
エステルは切々と真剣な口調で語る少年を見下ろした。つられたようにアベルが顔を上げて見てくる。視線がぶつかる。
“戦争が始まってしまった。俺はここに来る前、「できるだけ惨たらしく殺されてみろ。それが開戦の理由になる。お前の価値などそれだけだ」と父王に言われてきた。だから、毒入りの食べ物などに気をつけ、なるべく
「アベル殿下、あなたという方は」
エステルが呻くように呟いたそのとき、空気が揺れた。
ミリアムの背後に控えていた兵たちが道を開いている。
「全員動くな。この騒ぎは何事だ、ミリアム」
抑制の利いたルークの乾いた声が響き渡った。
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