第8話 その頃は三人だった
ひとたび生活態度をあらためた後のアベルは、歳に見合わぬ聡明さと謙虚さで、またたくまに周囲に受け入れられていった。
「アベル様、本当に素直でお可愛らしくて。些細なことにも『ありがとう』って必ず言ってくださるのよね」
「あの品の良さは王族だから、だけでは説明がつかないと思う。神々しい。は~、いまでさえあれほど完璧に整ったお顔立ちなのに、十年後はどんな美青年になるのかしら」
(これがてのひら返し……! アベル殿下のお世話、あっという間に取り合いですものね……!)
いまだにアベルに対して王女と打ち明けられないエステルは、開き直って「筆頭侍女」として振る舞っている。侍女たちの顔ぶれは日によって変わるが、唯一エステルは毎日アベルと顔を合わせている状態。
仕事に関しては、他の侍女に教わりながら手を抜かずにこなしていた。
一緒にベッドメイクをしたり、洗濯物を回収したり。手際はだいぶ良くなった。もはやどこからどう見ても侍女であり、顔見知りでさえ王女だと気づかないであろう働きぶり。最近は侍女たちもエステルが王女であるということを忘れがちであった。
今日も今日とてアベルの部屋へと向かう廊下で、エステルの後からついてくる侍女二人は、まるで王女がそばにいることを忘れたかのように明るい声で話し続けている。
それでいてその会話内容が国同士の事情に及べば、どうしようもなく不穏さが滲むようになっていた。
「アベル殿下の十年後も楽しみだけど……。それだけ先なら、この国際情勢も変わっているかな。いまは、あの国とはいつ戦争になっても」
「シュトレームの王が好戦的との噂はずいぶん聞くわね。でも、だからこそ今はあちらにヒース様が滞在されているのよ。王の翻意は難しくても、重臣たちを説き伏せる努力はなさっているんじゃないかしら」
「そうね。平和的な解決策を模索するために、あの方が向かわれたのだわ」
二人の会話を聞きながら、エステルはふとした折に突きつけられる現実にため息をつきそうになる。
アベルという少年は、愛されてしかるべき善なる存在と信じられるのだが、その抱えた事情は予断を許さない。
いまは小競り合い程度で睨み合っている二つの国がひとたび「開戦」となったら。
そのとき、アベルの扱いは難しいものになる。彼の命、生存、そのものが。
(そういった事態を避けるために、マチス様がシュトレームへと旅立ったと……。あの方の手腕を信じるしかないのだけれど)
今にして思えば、王太子という身分にありながらルークが志願したその心境もわからないわけではない。相手の
名指しを受けて動揺していたミリアムに、その役目は無理だったかもしれない。
だが、ルークと志を同じくするマチスであれば、もしかしたら。
(アベル殿下が、拙いなりにこの王宮で人心を掌握しつつあるように……。マチス様もきっとシュトレームの王宮で奮闘されている。吉報を待ちましょう)
自分に言い聞かせ、エステルはアベルと顔を合わせる前に気持ちを切り替える。
「殿下、おはようございます!! 今日は何をしましょうか!!」
「エステル、おはよう。昨日持ってきてもらった本を読んでいたんだ。少し解釈が難しいところがあるので教えてもらえないだろうか」
きっちりと着替えをすませて身支度したアベルは、ほっそりとした体を一人がけのソファに沈み込ませながら本を読んでいた。
エステルがそばに近づくと、はにかむような淡い笑みを浮かべて響きの良い声で言う。
「エステルは本当に教養がある。王宮に上がる前にきちんとした教育を受けていたんだな。ルーク王太子殿下が頼りになさっているのもわかる」
(兄が私に対して他の方とは態度が違うのは、妹だからですが)
打ち明けていない事情。
知らないはずなのに、アベルはまるで勘づいているかのように心で呟く。
“ふたりはまるで兄妹のような仲に見える。俺の兄弟は俺に冷たかったが……。ルーク殿下がお兄さまで、エステルがお姉さまだったら”
(「お姉さま」……!!)
心臓が、跳ねた。
エステルには弟妹がいなかったゆえ、これまでそのように呼ばれたことはない。もちろん、今のはあくまで心の声。アベルは他人と節度ある距離感で接する少年だけに、その言葉をエステルに対して実際に口にしたわけでもない。
それでも、心の中でルークを兄と呼び、エステルを姉と呼びたいほどに慕っていると知って、気持ちが晴れやかになった。
きわめて情勢の不安定な国の王族同士、いまは緊張をはらむ関係ではあるが。
次の世代を担うルークやアベルがこれほどまでに打ち解けているのなら、二つの国は戦争を回避し、手と手を取り合うことができるのかもしれない。
明るい未来が、見えたように思ったのだ。
「今日のおやつは殿下の大好きなフルーツケーキと、タルトとパイを取り揃えていますからね。お勉強した後、たくさん召し上がってくださいね」
「お菓子の家の魔女みたいなことを言うね。この王宮の人々は俺を太らせようと画策しているんじゃないだろうか。最後は食べられるのかな。ぱくっと」
ははっとアベルは声を上げて笑った。
それはエステルが最近彼に読み聞かせた物語にかけた会話であり、この場で話題にするのは不自然でもなんでもない。なのに、「最後は」という言葉が無性に引っかかってしまい、エステルはアベルのソファの肘置きに手を置き、勢いこんで言った。
「食べるために太らせようなんてしていませんよ! アベル殿下はそうでなくても細すぎるんです。もっとたくさん食べて、お兄様のように心身ともに頑健な大人になってくださいませ!」
「お兄……さま?」
“エステルのお兄さま? それとも……、ルーク殿下のことを兄のように思っていることが、ばれてしまっている?”
目の合ったアベルの心から、戸惑いの声。
(こ、これは……、思い切って私が王女であると打ち明けるべき? そして、王太子殿下のルークは私の兄で、私がアベル殿下のお姉さまであるなら、アベル殿下は二人の弟なんですよって、言って……三人で)
夢を見たのだ。
三人で兄姉弟のように仲睦まじく過ごせるのなら。「我が国」「あなたの国」などという見えない境界は消えて無くなるのではないかと。
夢を見たのだ。
日々が美しく煌めくほど、崩れ落ちていく予感は刻々と残酷なまでに募っていくというのに。
「アベル殿下。実は折り入って打ち明けたいことがございます。ルーク王太子殿下と私は……」
複数の荒々しい足音が迫ってくるのが、耳に届いた。
そのただ事ではない様子に、エステルは口をつぐんでドアの方へと顔を向ける。
先触れも何もなく、ドアは乱暴に開け放たれた。
そこに立っていたのは、豊かな黒髪の麗々しい乙女。
見覚えのあるその相手に向かい、エステルは素早く歩み寄る。
「ミリアム嬢? どうしてここへ」
その目は、エステルを見ない。
ソファから立ち上がったアベルをじっと見つめていた。
赤く塗られた唇が、引き攣れるように釣り上がり、歪な笑みがその顔に浮かぶ。
背後に私兵と
ミリアムは、唇を開いた。
「あれがアベル王子よ。殺しなさい。マチス様の
「ミリアム嬢、何を言っているのです!」
エステルは声を張り上げたが、この時身に着けていたのは侍女の制服。興奮状態にあるミリアムも、その連れも叫んだ侍女が王女エステルだと気づいた気配はない。
ミリアムは、エステルに泣き笑いのような顔を向けた。その目はエステルを見ているようで、見ていない。何もない空間にあらざるものを幻視したように据えられ、謎めいた微笑がその顔に広がっていった。
唇から、熱に浮かされたような言葉が漏れた。
「私に愛を囁き、身代わりを申し出てくださったマチス様はシュトレーム王によって殺されました。首だけの姿となって帰還を果たしたのです。これは宣戦布告。私たちもただちに受けて立つべきです。血塗られた所業には残忍な報復を。アベル王子を寄越しなさい。私が殺してあげる。誰よりも苦しんで死ねば良い!!」
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