【第二章】】笑わない王と、笑わせたい王妃

第13話 捻れた年月と、一途な思い

 かつてある国の女王が婚礼に際し真っ白の絹のドレスをまとい、その身が「純潔」であることを示した。

 花嫁の衣装に「白」が習慣化したのは、それ以来。


(ただし身分ある乙女たちは、どんなに遅くとも二十五歳くらいまでには一度目の結婚を済ませている。それより上の年齢でなお「純潔」の「白」にこだわるのは、その身をもって「私は結婚できませんでした」と言っているようなもの。分別があるのであれば、だいたい避けて、うやむやにする。……と、行儀作法に精通している教師はくどくどと言っていましたが。そもそもそんな行き遅れの花嫁見たことない、とも)


 エステルは「だからそんな格好でのこのこ出向いたら、あなたは常識知らずと笑われるだけですよ」と言い放った教師の強弁を右から左にやり過ごして、きっぱりと言い返した。


 ――着たいから着るんです。それに、顔合わせは結婚式ではありません。その場で私は「純潔」よりも「敵意のない、まっさらな気持ちです」と、どうにか陛下にお伝えしたいのです。なにしろこれは終戦の話し合いの最終段階、平和協定の一環としての政略結婚です。裏表のなさこそが大切だと考えています。


 昔馴染みとはいえ、ともに過ごした時間は本当に短かったアベルが、エステル本人や結婚に対して何か思い入れがあるとは考えてもいなかった。

 正確には、考えないようにしていた。名指しで申し込まれたときから、今に至るまで。

 小さかったのだ。もう昔のことなんか忘れているだろう。

 エステル自身、その名を耳にするたびに懐かしさや会いたい気持ちはたしかにあった。それ以上に、紛れもない「敵」として、いつしか凍りつくような恐怖を覚えてもいたのだ。


 軍将としてのアベルは極めて優秀であり――バルテルス軍を苦しめ抜いた。


 とはいえ、決して連戦連勝の無敗の将であったわけではない。

 彼の前には、自ら指揮官として戦場に赴いたバルテルスの王太子ルークが何度となく立ちはだかり、ときにひどい消耗戦を繰り広げたという。

 二人が、直接顔を合わせたかどうかまで、エステルにははっきりわからない。従軍した将校の心の声を探る気力はなかった。たしかなことは、かつてほんのいっとき兄弟のようにじゃれあっていた二人は、停戦までの日々命がけで戦い続けてきたのだ。


 エステルは二人が激突したと聞けば、戦況の知らせがある前からこらえきれずに涙を流し、激痛を訴える胃に苦しみ、眠れぬ日々を過ごしてきた。


(戦わないで。殺し合わないで。あの頃はふたりとも、笑っていたでしょう。アベル殿下はこっそりと「お兄さま」と呼んでいたでしょう。失われた日々が戻るとは思いません。それでも、願ってはいけませんか。また二人が笑いあえることを)



“傷ついたエステル姉さまと、心を失ったルーク兄さまに。二人が笑える明日が訪れますように”



 戦場に立つことのないエステルは、父王の傍らで「心の声を聞く力」を要所要所で使い、その政務を補佐してきた。直接的ではないが、バルテルスを生かすための働きによって、アベルと敵対する行為をしてきた自覚もある。

 たとえ戦争が終わったとしても、もう無理かもしれない。

 戦い続けたアベルもまた、相当に深い傷を負っているはず。もう、そこにある感情は愛憎というよりはもはや「憎しみ」一色になってしまったのでは。


 エステルの抱いたその危惧を、ものの見事に打ち砕いたのは、アベル本人。


 王宮で待ち構えていればいいのに、まるで、かつての要人派遣とは名ばかりの人質交換のように設定された国境における「身柄引き渡し」の場に、自ら迎えに来た。

 そこで、麗しい青年へと成長を遂げていたアベルは、冷笑を浮かべて言い放ったのだ。


「俺はあなたを愛することはないでしょう。そのおつもりで」


 そのくせ、心の中では大騒ぎだった。


“冗談でも言いたくない、こんなこと。俺は姉さまのことだけが好きだったし、今回の件だってさんざん国益云々で理由はつけたけど、要するに姉さまと結婚したかっただけだ。だけど諸々片付くまで絶対に手を出すわけには……。そもそも姉さまは俺のことなど眼中にも無いだろう。どうすれば……どうすれば振り向いてもらえるのか。いや「愛することはない」だなんて言った時点でもう無理だろ……死にたい……”


(死なないで……)


 * * *


 ガタゴトと車輪の振動が伝わる中、沈黙が埋め尽くす、二人きりの車内。


(ごめんなさい。ごめんなさい。必要があってあなたの心の中を聞いたのだけど……。まさかいまだにあなたがあんなに「エステル姉さま」のことを気にかけているだなんて考えてもいなくて。私、いま大変動揺をしています)


 想定外過ぎるアベルの本音。

 エステルは、目を合わせて話すのは、ひとまず避けようと決めて背を向けることしばし。

 アベルからの呼びかけは無い。

 さすがに不自然な態度を取りすぎたかと、そーっとアベルを振り返った。

 背中を射抜くほどに、見つめられていた。目が合ってしまった。


“エステル姉さま、やっぱり、あんなことを言う俺のことなんて嫌いになりますよね。嫌われ……。ああ、嫌われたくなかった。言わないわけにはいかないから言ったけど、嫌われたくないし、本当は心の底から今もお慕いしていますって言いたい。子どもだってたくさん作れとイグナーツは言うけど”


「陛下。その、本当にお久しぶりです」


 エステルは思わず、音声として聞こえてはいないはずの心の声を遮るかの如く口火を切った。


「はい。長いことお会いする機会がありませんでしたね」


“中立国の国際会議などで、姉さまは陛下に従ってきていたので……。遠くからでも見る機会があったら俺は逃さず姉さまの姿を探して、目で追っていましたが。あのとき、あんな形でバルテルスの要人を惨殺し、戦争を始めた父王を俺は許せなかった。どうにか廃して俺が即位し、終戦への道筋はつけたが。そこから姉さまとの結婚までどう持っていけば良いかというのがまた至難の”


(シュトレームの前王はなんらかの理由で引退したと聞いていたけれど、いまのアベルの心の声はひとまず聞かなかったことにしましょう)


 さりげなく話をつなげようと、エステルは微笑みかけてみた。


「陛下が、とても立派な青年になっていて、私は驚きました。昔はあんなに小さくて、お可愛らしかったのに」


“姉さま、昔のことを覚えてらっしゃいますか……ッ。ああ、姉さまになら「可愛い」って言われても全然嫌じゃない。むしろ嬉しいです。本当は姉さまの可愛い弟でいたい。いや、弟ではなくいまは夫ですが。夫。そう、ようやく”


「陛下」

「失礼、目に埃が」


 なにやら妄想をはじめそうなアベルをエステルが遮ったのと、アベルが手で目元をおさえ、横を向いたのはほぼ同時であった。

 視線が外れたことで声は聞こえることがなくなったが、エステルとしても、アベルからの非常に直接的な思いを続けざまに浴びて変な動悸がしていた。


(しばらくこちらを見ないでください……。あなたまったくの無表情で心の中はそれって……、そこまでぶっちぎりで乖離したひと、いままでお会いしたことありませんけど……!?)


 成長したアベルは、傍目には眼差し鋭く、容色に優れた怜悧な印象の青年である。久しぶりに目にしたその姿は、艶のある黒髪も、鉄壁の無表情も、すべてが若き王を彩る評判通りで、いったいどんな考えがあってこんな年増の王女を王妃に迎えるなどと言い出したものかと、気後れすらしてしまったというのに。

 口を開けば冷ややかな言葉しか出てこないのは覚悟していたが、その内心が。

 まさかこれほど、六歳の頃の記憶を引きずっているとは。

 恐る恐るエステルがうかがうと、アベルもまたちらり視線をくれた。目が合って、エステルはびくりと体をこわばらせる。一方のアベルは渋い表情を崩さぬままエステルを見つめてきた。


“俺が結婚をするとすれば……。女性と言えばエステル姉さましか思い浮かばなくて。俺のせいで結婚できなくなったエステル姉さまは、ずっと未婚で”


(……いいのに。それは六歳の子どもだったあなたが、十年以上引きずるようなことではないのよ。責任を感じることでもないわ。そんなつもりで、私は六歳のあなたのそばにいたわけではないの。そのくらい、おわかりになるでしょう?)


 十歳も年齢差がある。エステルの記憶にあるアベルは美貌の青年ではなく、はにかみ笑いとともに、身の回りの者に謙虚に「ありがとう」と礼を言う少年だった。好ましいとは思っていたが、そのときエステルが抱いていた感情は、断じて恋情ではなかった。

 もっと、血を分けた姉弟のような、親愛や敬意、その弱さや脆さを守ってあげたいという、ただそれだけであった。


(恋なんて、そんな恐ろしいもの。私は生涯関わらずに生きていきたい。恋に生きたミリアム嬢は、血溜まりに沈みました。あの後、誰とも顔を合わせることなく修道院へと。婚約者と親友であるマチス様のお二人に裏切られた形になったお兄様は、すっかり変わってしまった……。お優しい方だったのに)


 今年三十歳になったルークだが、いまだに結婚はしていない。ミリアムとの婚約が解消された後、まったく周りに人を寄せ付けなくなり、「妃」や「跡継ぎ」という言葉をはねつけている。いつしかそれは王宮内では口にするのもはばかられる禁句になってしまった。


 破れた恋人たちの記憶をたどり、忘れ得ぬ痛みが蘇ってきたのはほんの一瞬。

 それでも、気を抜くと涙が出てきそうになる。胃が幻の痛みをなぞる。

 逃れるように、エステルは首を振って、アベルへと向き直る。

 すぐに、心の声が流れ込んでくる。それは、エステルが受け止めかねるほどの熱量で、なにかの間違いではといぶかしみつつ、エステルは思い余って提案してしまった。


「キスします?」


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