第14話 キス
キス。
唐突過ぎる申し出に、アベルの表情にはいささかの変化も無かった。
心の中には暴風雨が吹き荒れていた。
“姉さまが俺を懐柔しにきた、だと……!? どういうことだ。罠……? 考えないようにしてきたが、そもそも姉さまがなぜこの結婚を受けてくれたかはわからないんだ。何か国から使命を帯びてきている線も考えられる、のか? たとえば俺の暗殺……。そうか、俺の暗殺か。個人的には姉さまの手にかかって死ぬならやぶさかではないが”
「そこはやぶさかであってよ、あなたは一国の王でしょう」
「エステル姫?」
聞こえるはずのない心の声に思わずつっこんでしまったエステルは、横を向いた。
(能力に関して、今までこんなボロを出したことなどないのに、陛下の「声」がうるさすぎて……!! 私があなたを殺すだなんて、そんなことありえない。それすらも、あなたは疑うの? 疑わなければ生きていけない環境にいたの?)
不用意な一言とともに、不自然に顔をそらしてしまった。
そんな場合ではないと、エステルは今一度アベルに向き直る。
視線が絡んで、心の声を聞いてしまう。
“キス……。するという発想がなかったけど、夫婦ならするのか。そもそもイグナーツからは子どもを作れと言われている。今の俺にそんな気はないが”
(「そんな気はない」……それはそうですよね。あなたの「好き」がそうじゃないことくらい、私だってわかっていたわ。良かった。本当に良かった。「恋」じゃなくて。我を失うほどに互いを求めるのではなく、常に冷静に敬意を持って接し、ともに平和のために尽くすのがこの結婚の目的のはず。そのために、今すぐには難しくても、最終的に側室を置くこともないほどに、誰の目から見ても幸せなものにしなければならないわけで……。それなら、その日のために「キスの練習」くらいはできるときにしておいた方が。私も、いきなりは無理かもしれない。したこともないし)
結婚に関して、エステルの父王の考えははっきりしていた。旅立つエステルを送り出すときに「王族としての勤めを忘れず両国民が幸せになれるよう。エステル自身が幸せになり、この二国は憎しみではなく愛情をもって歩んでいけることを示しなさい」と言ってくれたのだ。
その言葉の通り、エステルは何をおいても幸せにならねばならない。
幸せになれることを身をもって示すために、暗殺などされるわけにはいかないし、もちろん暗殺もしない。子どもが生まれたら「敵国人の血をひく」という理由で、その子を両国から疎まれる存在になどしてはならない。
(陛下の凛々しい青年ぶりに気後れしそうになったけれど。そんな場合ではないわ。いまから、きちんと、いざというときに「互いを愛している夫婦の真似事」ができるように。キスくらいこなさなければ。キスくらい)
エステルは軽く腰を浮かせると、アベルの首元のクラバットを掴んでぐいっと引く。
ちょうど馬車がガタンと揺れて、二人は額と額を打ち付けた。「痛ッ」と呻きつつ、エステルは素早く唇に唇を重ねた。
すぐに身を引いて、座面に腰を下ろす。
……沈黙。
うるさいほどの心の声が聞こえなくなり、エステルはそっと視線を向けてアベルの様子をうかがった。
アベルは大きな手のひらで口を覆い、乙女のように俯いていた。
エステルの視線に気づいたように目を向けてくる。その瞳はなおさらに冷ややかさを帯びており、エステルを打つかのような声音も非常に鋭いものだった。
「あなたがこんなはしたない女だったなんて」
“キス……をしてしまった。エステル様から。すごく嬉しい……好き……”
(陛下。「好き」は、まぎらわしいです。陛下にとって私は「姉」ですよね。私にとっても、陛下は)
ミリアムの恋愛が、血と破滅を呼び込んだ光景は、今もエステルの目裏に焼き付いている。ひとが変わってしまった兄のルークから「お前もミリアムと同じあばずれなのだ」と罵られたこともまた、いまだに傷になっていた。
あのとき以降、感情に任せて「恋」などしてはならない――それは強烈な禁忌としてエステルの心身、行動を縛る枷となった。
それゆえに、エステルは自分自身に「恋」を許すことはできない。自分に向けられる「恋愛感情」も
たとえ「夫」となるアベルとて、ひとたび「恋愛感情」の片鱗など見せようものなら、エステルは決して許すことはできないだろう。
姉弟のように互いを敬い、ひとつの目的のために歩む距離感。それこそがエステルの思い描く理想の関係。
「陛下は、私にとっては今でも可愛い弟のようなものです。私は以前と変わらずにあなたに心を寄せております。陛下の無理のない範囲で、夫婦という関係を築いていきましょう」
「そんな言葉で俺を篭絡できるとでも?」
“弟としか見られないのは、重々承知しています。十年以上前のあのときなら、俺はその言葉で飛び上がって喜んだでしょう。ですが、いまはあの頃とは違います。大人になりました。俺は弟ではないし……そもそも、本当に俺を変わらず受け入れられるのですか、あなたは。会わないこの時間、あなたもあなたの国の民もおおいに苦しんだはず。俺は……、いまや無力で無価値な王子ではなく。あなたの国が戦い続けた敵国の王なんです”
アベルの表情はどこまでも硬質で、動きに乏しい。
それは十二年前、親友の死と婚約者の裏切りの告白以降、心の声を一切響かせることすら無くなったエステルの兄ルークを彷彿とさせた。
(違う。陛下は兄様とは違う。陛下は、心の中は今もこんなに豊かで、少年のときと変わらない心根の優しさをお持ちで。今はどうしても素直にご自分の考えを出すことができないのだとしても、原因は国同士のこと。私の心を知れないあなたは、私すらも疑うしかなく)
なぜ自分は「心の声が聞こえる」なんて能力があるのだろうと思っていた。知りたくもないことを知り、聞きたくもない本音を聞いてしまう。これ幸いと不必要な場面でまで利用しまくれるほど根性が強くもなかった。
だけどいま、彼の心が聞こえて、
「あなたは私を愛さないと言いましたが、私はあなたを愛しています。たとえ両国がふたたび戦火を呼び込むことがあろうとも、私はバルテルス出身の王族で、シュトレームの王妃として平和を諦めません。被害を食い止めるよう、尽力します。せっかくあなたが最良の手段として考えてくださったこの結婚を、私は大切にしていきたいと思います。周りがなんと言おうと、二人で乗り越えていきましょう。あなたのお考えはいかがですか?」
(そこに恋愛感情などなくとも、私たちは協力していけるはずです)
アベルの青い目とは、たしかに視線が合っている。
それでも、いまやうるさいほどのあの声は聞こえなかった。
自分の、心の声を聞く能力が消え去ってしまったのではないかと思うほどの、静寂。
やがて、アベルが唇を震わせて言った。
「同じ考え、です。でもそれは、ひどく危険で、あなたを巻き込んではいけないものだと思っていました。あなたは今でも俺の大切なひとで……」
この声は、心の声と空恐ろしいまでに完全に一致しているのだ。だから、ひとつしか聞こえない。彼の心はそこにひとつしかない。
全身を耳にしてその声を聞くエステルに、アベルは重ねて言った。
「俺はたしかにさきほど、あなたを愛さないと言いました。……愛しても、良いのでしょうか」
「あなたの心が定まるまで、私は待ちますよ」
(恋情を伴わない「愛」ならば)
「すぐには……。あなたを害そうという者もいます。あなたをお迎えするまでに、完全に安全な状態にはできなかった。俺は、自分があなたに溺れていると示すことで、あなたを危険に晒すくらいなら、お飾りとして扱い、愛していないと周りに思わせておいた方が、と」
(隙を見せられない生き方をずっとしてきたのだわ。いかなる本音も周りに知られてはならないと、何もかもご自分で抱えているしかないような。誰にも打ち明けられないあなたの心に、私は寄り添いたい。あのときのように、「姉さま」として)
アベルの表情が、動く。微笑みではなく、苦悶に歪む。
笑えないのだ、どうしても。
「ひとまず、愛を交わすのは馬車を下りるまでこのひとときだけ。これから、私たちのこの絆にかけて二つの国を変えていきましょう」
アベルの手に手をのせて告げ、エステルは目を閉ざす。
ぎこちない腕が背に回される。
やがて、触れるだけの優しい口づけが二人の間で交わされた。
唇が離れた後、エステルはアベルの目を見ぬように俯く。
手は重ねたままであり、背には添えるようにまわされた腕もそのまま。
ため息をつくように、アベルが吐息をもらした。息が近い、とエステルが思ったそのとき、耳元で囁かれる。
「王宮は、あなたにとって住みよいものではありません。危険がいくつもあると知っておいてください。あなたの周りには少しでも信頼できる者をつかせるように手配しておりますが……。『人心掌握』とは言いますが、ひとの心の隅々まで把握することなどできません。誰がどんな本音を隠しているか」
「覚悟しています。つい最近まで戦争をしていたのです。親兄弟をバルテルス軍に
重ねていた手の下からアベルの手が抜かれて、上からぎゅっと、握りしめられた。
同時に、背にまわされていた腕にも力がこめられる。
「あなたを同じめになど遭わせません。あの時あなたが俺を守ってくれたように、今度は俺があなたを……」
固い胸に頭を押し付けられるように抱き寄せられて、エステルはアベルの心臓の鼓動を聞いた。
(小さな子どもだったのに。この方は、本当に私よりずっと大きく成長されたのね。いまでもお菓子はお好きかしら)
あの時の少年に、いまは自分が抱きしめられている、という不思議さにエステルは顔を上げる。
目が合ったアベルは、青の瞳に切実な光を宿し、告げた。
「作戦会議をはじめましょう。周りの者についてご説明差し上げます。俺のお伝えする内容をよく覚えておいてください。あなた自身の身を守るために」
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