第34話 お飾りではなく
恋によって婚約者を裏切った女性がその後どんな人生を送っていれば、「裏切られた婚約者の妹」である部外者の自分は納得するのだろう。
ずっと考えていた。
死んだ恋人への思いを貫いて、決して他のひとへと目を向けることなく生涯ひとりで生きていれば「あれほど周りのひとを傷つけた悪行を本人も理解している」と考えるのだろうか。
(「悪行」とはそもそも何? 婚約者は生まれに従い、子どもの頃に決められた相手。好きになった男性は物心ついてから出会った相手。あのときのミリアム嬢は、まだ十八歳だった。「王侯貴族の定めに従うことができず、自分にも心があるのだと言わずにはいられなかった」それはその後の生涯をすべて償いに費やさなければならないほどの「罪」なの?)
度重なる問いかけはいつも胸の中に。答えにたどりつく方法もわからぬまま、堆積していく。
ミリアムの言動を即座に「悪」とは思いきれぬ気持ちがある一方で、そのときを起点にひととしての「幸せ」を完全に諦めてしまったようなルークのことも気がかりで仕方ない。
婚約者と友人に裏切られたルークはこれから先も、誰にも心を許すことなく、信じることができないのかもしれないのだ。
では、ルークにそれほどの傷をつけたミリアムは。
自分自身も「幸せ」にはならないことをもって、ルークに償うことができるのだろうか。
ルークの不幸せは、ミリアムの不幸せが癒やすのだろうか。癒やすというのであれば、そのことによってルークは「幸せ」にならなければいけないのでは。
そこまで考えたところで、(本当に?)という疑問が頭をもたげる。
(私の兄のルークというひとは、他人の不幸によって幸せになるひとだった……? いま幸せそうでないのは、ミリアム嬢の行方が知れず、「きちんと不幸な人生を生きている」ことが確認できないから? だとすれば、私はミリアム嬢を探し出して、何かささやかな幸せを見つけてそれを拠り所にして生きていたら徹底的につぶして、兄様に「あの方は今も不幸ですよ」と伝えることで、兄様を救えるとでも……?)
不幸なひとを増やすことで、少しの幸せを獲得できる世界の在り方は、本当に「幸せ」への道を歩んでいるのだろうか。
――ユディット養護院。郊外で、距離があります。院長が……少し変わった女性で……。変わってはいますけど、信用できます。ミリアム嬢はそちらに。
イグナーツの案内により、目的地へは馬車で向かう。道中、アベルもエステルと同じ馬車に同乗しているものの「眠いです」と言って大半は寝ていた。
エステルは寝息をたてているアベルに寄りかかり、少しだけ開けた窓からの風を感じながらぼんやりとしていた。
(もしミリアム嬢が、マチス様への思いを断ち切り、他の誰かと愛し合って生きていたら私は……。「自分だけ幸せになって。兄様はまだ引きずっているのに」とミリアム嬢の罪悪感に訴えかけるのでしょうか。そんなことのためにお会いしたいわけではないはずなのに、気持ちの整理がまだ……)
ミリアムが恋などせず、王妃になってルークとともに生きてくれていたのなら。
エステルは王妃としてアベルに迎えられ、そのアベルに恋をしている。「許された恋愛」によって自分だけが幸せになろうとしている事実に、後ろめたさがあるのだ。
過去に区切りをつけたいというのは、自己満足でしかないとしても。
ミリアムもまた、「会いたい」と言ってくれているという言葉を頼りに会いに行く。
* * *
「エステル様がお越しになってから、陛下が以前より笑うようになったんです。上司の機嫌が良いってのは、下で働く者としてはすごく重要なことですよ。それだけでも本当に良かったなって」
目的地であるユディット養護院は、年季の入った石造りの建物。
すぐそばまで森に囲まれているが、敷地内は開けていて日当たりは良い立地。
アベルは馬車で待っているとのことで、エステルを先導するのはイグナーツ。門からの小道で、話しながらエステルを振り返った。
目が合うと、口の端をつりあげて笑う。
「ま、エステル様断ちの三日間はその分、ひどかったんですけどね。念入りに引き裂き過ぎました」
「会えない時間が思いを育むとしても、私もこたえましたよ」
苦笑しながら返事をしたところで、きらきらと輝く陽射しの下、さあっと風が吹いて草木の香りがたちのぼり、梢の葉擦れが耳に届いた。
(会えない時間が……)
長く会わなかったひとに会いにいく道が、感傷を呼び起こす。物語のような奇跡がどこかに転がっていないかと。
それでいて心の深い部分で冷静に理解してもいる。
長すぎる時間の経過は、たとえばひとの去った建物を風化させ廃墟とするように。
二度とは元通りにならない。
門から歩き続けて、ふと前方の建物を見る。その横、耕された畑のそばで遊んでいる子どもたちが見えた。エステルはドレスと揃いの帽子のつばを軽く指で持ち上げるようにして、目を凝らした。
黒髪の女性が、まとわりついた子どもを見下ろして、微笑んでいる。エステルの視線の先で、ふっと顔を上げた。動きを止めてエステルを見てきた。目が合っているかどうかもわからないほどの距離で、女性はゆっくりと
エステルもまた、立ち止まって居住まいを正し、礼をする。それから、歩きを再開した。
彼女の服装は、貴族のそれではない。近づくほどに洗いざらしの庶民的なシャツとスカートだとわかる。顔を上げてみれば容貌のうつくしさは以前のまま、それでいて表情が決定的に違う。違うけれどそこに穏やかな笑みがあって良かったと、心の底から思った。
(ここが、ミリアム嬢の笑える世界で良かった)
懐かしさが足を前に進ませる。
一足ごとに涙がこみ上げてくる。泣く場面ではない、しゃんとしていようと思うのに、うまくいかない。
黒髪の女性、ミリアムの前に立ったときには、両目から涙が溢れてしまっていた。
エステルをまっすぐに見たミリアムもまた涙を流しながら、声なく唇を動かした。
“来てくれてありがとう。ずっと会いたかった。ずっとあなたに謝りたかった”
* * *
『うまく話せないから、筆談でお願いします』
決して声を出して話すことのないミリアムは、紙の束に鉛筆でそのように文字を書き付けた。
場所は養護院内の礼拝堂。高い位置にある窓から光が差し込み、古ぼけてひんやりとした机や椅子にほのかなぬくもりを与えている。
並んで座ったエステルは、「持ち合わせがなくて、それを貸して頂けますか」とミリアムに言いながら手を差し伸べた。
ミリアムはすぐにさらさらっと紙に文字を書き付けた。
『耳は聞こえてる。あなたは普通に話してくれていいのよ』
文字を読んでから、エステルは数秒息を止めて、吐き出した。
「その通りですね。なんとなく自分も同じようにするものだと思ってしまいました」
(本当は、目を見て話せば、筆談すら必要無いのだけど。ミリアム嬢が伝えたいことだけを知りたいから)
ミリアムは肩を震わせて笑い、文字を綴る。
『私が過ごしていた国境近くの修道院は、あるとき戦闘に巻き込まれてしまいました。とても怖い思いもしたけれど、シュトレーム側の指揮官に女性がいて、修道女たちは身柄を安全に保護してもらえました。非戦闘員として、望めばバルテルスにも帰れたんですが、私はどこへ行くあてもなかったので、そのままシュトレーム軍に連れられ、ここまで来たんです。そのときの指揮官が、現在はこの養護院の院長になっています。とても元気で前向きな方です。耳をすませてみて』
不思議な指示が書き込まれている、と思いながらエステルは並んだ木の机を眺めつつ、意識を凝らす。
「……遠くで……女性が大声を出している……ように、聞こえます」
『そう。院長は怒鳴っているのではなく、声が大きいの。あのくらいの声量が必要なのよ、ここでは。子どもって、本当に言うことを聞かないの。私はここに来るまで子どもと接することがなかったから、誤解していたわ。子どもというのは純粋無垢で何ものにも染まっていない天の御使いのような存在で、ただただ愛らしいのだと信じていました』
「違うんですか?」
『全然。だいたいにして、怠惰でずるくて、割当の作業があってもどうにかしてさぼることや手を抜くことを考えているの。ときにとても邪悪な存在にすら感じるわ。だからね、院長のように、悪いことは悪いってきっぱり教え導くひとがいないとすぐに統率がなくなってしまうの。あの方は戦場で兵を率いてきただけあって、勇敢で、ひとの上に立つことに物怖じせず、堂々と振る舞えるの。この養護院の院長として得難い人材だけど、もっと違うこともできるんじゃないかといつも思う。本人は大きな望みなんか無いって言うけど』
「違うことというのは?」
『あの方くらいの才気があれば、私がなれなかった王妃様にだってなれると思うわ』
文字を見つめたまま、エステルは沈黙をしてしまった。
間をおいてから、ミリアムの目を覗き込むようなことはせず、ただゆっくりと返事をした。
「ミリアム様は、いまどんな暮らしをなさっているのかとここに来るまで考え続けていました。マチス様以外の方を愛していらっしゃっても、祝福しようと、顔を見る寸前にようやく自分の気持ちに折り合いをつけました。死んだひとより生きているひとが優先されるのは当然のことです。ミリアム様は、バルテルスの王妃にはなりませんでしたが、生まれたときから決められていた道を外れたからといって、幸せを求める気持ちまで他人に否定されるべきではありません。ミリアム様は、いま……」
『恋には生きていないけれど、ここは私にはもったいないくらい素敵なところで、楽しく暮らしています。幸せよ』
『あなたを傷つけてしまったことをずっと考えていました。私が先に幸せになっていてごめんなさい。私が言うのもおこがましいけれど、あなたも幸せになって』
『この国の王妃となって、たくさんのひとを幸せにして』
『エステル様なら必ずできます』
『アベル様は、エステル様を愛してくださいますか』
『王妃というのは、お飾りではいけないのです。エステル様は、周りからも認められて、名実ともにこの国の王妃様になってください。アベル様となら』
文字が途絶える。
動きを止めた手に、エステルはほんの少しだけ指先で触れた。それでも、続きを書くのをためらうミリアムに、声をかけた。
「私にだけではなく、兄に言いたいことがあるのではないですか。伝えます。ミリアム様の正直な気持ちをおしえてください」
しばらくの沈黙の後、ミリアムはたどたどしく文字を綴った。
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