第31話 心はここに

 陛下の夜のお渡りがある。

 アベルと別れ、部屋に戻ったエステルが恐る恐る打ち明けたところ、メイレンとダニエラの反応は目覚ましかった。


「湯浴みをして、髪も綺麗に洗って。花のオイルを肌に塗り込んで。夜着はどうしましょう。陛下がお好きなのが良いですよね。ああ、忙しい」


 夕食もそこそこに、エステルの身支度を整えながらああでもないこうでもないと言い合う二人。鏡の前で髪を梳かされていたエステルは、そんなに悩むなら、と進言した。


「陛下、侍女の制服がお好きなんですって。私も着ていて違和感ないですし、今晩はそれでも」


 途端、二人から全力で止められた。「そういう上級者の対応はまだ早いです。もう少しお二人の間に刺激が必要になってきた時期にしましょうね」と。特にメイレンの圧が凄かったので、エステルは神妙に「わかりました」と答えて、絹の夜着に袖を通した。

 普段ならベッドに入ろうかという時間に、従僕が廊下からアベルの訪れを告げた。心得ていたかのように侍女たちは全員引き上げ、入れ替わりにアベルが部屋に足を踏み入れる。


「こんばんは。遅くにすみません。お疲れではないですか」


 昼間アンナに向けていた声とはまったく違う。どこまでも甘く、耳朶にやわらかく染み込む低い美声。

 アベルが身につけていたのは、首に沿う立ち襟の、装飾のないシンプルな群青のシャツ。引き締まった色合いがほっそりした顎や繊細に整った美貌を引き立てていた。ドアのそばで出迎えたエステルは間近に並んで立ったときのアベルとの身長差にあらためて気づき、落ち付かない気分になって俯くと、「大丈夫です」と答える。

 それから意を決して顔を上げ、目を合わせないまでも「陛下こそ、こんな時間までお仕事ですか」と尋ねた。


「はい。今晩はエステル様にお会いできる予定があったので、楽しみで何も苦ではありませんでした。おっと、いまのは間違いです。ここは『大変でした。疲れました』と言って、エステル様からご褒美をもらうところですね」

「ごめんなさい、何も用意は」

「そう? 俺には、目の前に俺の一番欲しいご褒美があるように見えるんですが」


 アベルの両手で両方の頬を包み込むように持ち上げられ、顔を上向けられる。エステルが目を瞑ると唇が重ねられた。

 片手が首を辿って肩に落ち、もう片方の手が背にまわされる。

 唇がはなされたところでエステルが目を開けると、「今日一日生きてて良かった」という囁きとともに背を優しく押されて、歩くように促された。

 部屋の中を横切り、ベッドに向かう。「座りましょう」と声をかけられ、横に並ぶ形で腰を下ろした。二人の間で置き場に困った手は、アベルに手を重ねられ、指を絡めながらベッドの上に押し付けられる。


「日中の件、ありがとうございました。エステル様は俺の前でいつもとても勇敢で聡明で、素敵です。そんな場合ではないのに、見惚れてしまって。いつも助けて頂いてばかり」

「そういえば、あなたの前で侍女の姿で、ご令嬢に叱り飛ばされるのは以前にもありましたね」


 過日の面影が脳裏をよぎる。憧憬の麗人ミリアム。愛を叫んで血溜まりに沈んだ。壊れて失われた兄世代の友情と信頼。

 きゅ、と絡んだ指に力をこめられ、エステルは追想から引き戻された。


「エステル様はかっこいいです。俺もエステル様にかっこいいって思われたいのに、うまくいかない。コツがあったら教えてもらって良いですか。俺は何をしたら、エステル様にドキドキしてもらえます?」


 アベルが体の角度を変え、エステルにやや向き合う形になる。その拍子に軽く肩がぶつかった。それだけで、距離の近さにエステルの心臓は落ち着きなく跳ねる。体を傾けたアベルが下から顔をのぞきこんできたのに気づきながら、エステルは少しだけ視線をずらして訥々と言い募った。


「いつもドキドキしています、あなたにお会いしているときは。こんな風に……、他人を身近に感じたり、親しく話すことが自分の人生にあるだなんて、考えもしなかったんです。こんなにそばにいるのに、もっとそばにいたくて、ずっと離れたくないって思うんですよ。あなただけ」

「エステル様、それ以上は」


 絡み合った指が離れ、おさえつけてきていた手がふっと消えた。次の瞬間、エステルの体はふわりと浮いてアベルの膝に座るように横抱きにされ、頭は胸に押し付けるような位置になっていた。


「またエステル様に心臓壊されるところでした。この心臓の音、聞こえます?」


 エステルは息を吐き出す。目を瞑り、固い胸に耳をくっつけて、「はい」とひそやかな声で答えた。布越しに触れ合ったところから伝わるぬくもり。直に響いてくる鼓動。息遣い。とてもアベルを近く感じた。エステルの心臓も段々と早く鳴る。喉が干上がる。

 その動揺を知ってか知らずか、アベルにきゅっと強く抱きしめられた。アベルの息が耳元をかすめる。


「……俺もずっと離れたくないです。このままあなたとひとつになりたい。生まれ変わっても一緒が良い。俺は来世はひよこかもしれないんですけど、そのときはエステル様もひよこに生まれてください。ひよこ同士で結ばれましょう」

「ひよこ」

「エステル様の生む卵は絶対可愛いと思うんです。俺、卵が孵るまでしっかり守って温めます。任せてください。そのへんはきっちりできそうな気がします。かっこよく決めますよ」

「卵を生むとか守るという時期はすでにひよこではなく雄鶏とか雌鳥ですね」


 生真面目に答えてから、エステルは考え込む。アベルの腕に全身を預けたまま、そっと尋ねた。


「私たちはいま、いったいなんの話をしているんでしょう」

「仕事以外の、しょうもない話です。俺は普段、こういった実のない話をする男なんです。エステル様はそういうのはお嫌ですか」

「嫌ではないですが」


 危機感を覚えるほどの甘い空気の中、突然のひよこ。可愛い卵を生みそうというのは褒め言葉なのだろうか。

 困惑しきりのエステルに対し、アベルはくすくすと笑いながら指でエステルの髪を梳いた。


「良かった。本当はいつも、仕事以外の話もしたかったんです。いざとなると、難しくて……。変なこと言ったんじゃないかって、後から気に病むくらいなら、仕事の話をしている方が楽だなって。そのせいでエステル様を仕事仕事と追い込んでしまいました。ごめんなさい」

「謝って頂くようなことでは。仕事はしたくて、していたんです」


 慌てて顔を上げると、アベルに甘く微笑みかけられる。目が合った瞬間、自分がアベルの膝に座り、その腕にとらわれ、すでに逃げようもないほど体が密着している事実を思い出す。

 かあっと顔に血が上り、体が強張った。アベルは笑みを浮かべつつ、視線をエステルから外して前方へと向けた。


「エステル様は目を見て話すのが苦手そうですね。いつも、少し逸らします」

「すみません……」

「謝らないでください。苦手なら苦手でも良いんです。俺は、隣に立って一緒に同じものを見てくれるひとこそ、必要としていたんだと思います。俺のことは、ときどき見てくれたら。それだけで、エステル様の考えている百倍くらい幸せになれるんですよ」


 エステルを抱えたままアベルが立ち上がる。ベッドの真ん中に横たえるようにおろされ、アベルがその両脇に手をついて見下ろしてきた。


「たとえばこういうときに」


“好きです、エステル様”


 何も偽らない瞳。言葉以上に愛を告げる心の声。エステルが息を止めて見つめていると、アベルがまぶたに口づけを落として、優しく目を閉じさせた。


「本当は、バルコニーに出て、城下を見ながら言おうと思っていたんです。『俺の隣で、同じ景色を見てくれる女性をお迎えできて良かった』って。でも余裕がなくて、ベッドここにあなたを連れて来てしまいました」


 やわらかな唇が、額や頬、唇、顎と囁きの合間に触れてくる。やがて耳に触れたところで、そのまま低い声を流し込んできた。


「二人のときは、俺はあなたのことしか見ていません。他のことも考えられません。俺のすべてを捧げます」


 力なく投げ出されていたエステルの手首が、不意に強い力でベッドに押さえつけられる。痛みを覚えてうっすらと目を開けると、アベルの青い瞳がエステルを見つめていた。


「エステル様を俺にください。ぜんぶ」


 返事をする前に唇を奪われる。

 されるがままに、幸福な夢の世界へと引きずり込まれた、そのとき。


「陛下、ごめんなさい。嫌がらせじゃないです。信じてください、これはいじめじゃなくて本当に緊急事態なんです。怒ってもいじけても良いですから出てきてください。陛下ー?」


 どんどん、とドアが叩かれる音の合間に、聞き覚えのある赤毛の宰相の声。

 くっ、とアベルはいかにも口惜しげな息をもらして、エステルの顔の横に額を押し付けるようにし、沈み込んだ。未練がましくエステルの首に口づけてから、陰々滅々とした呟きをもらす。


「イグナーツ……!」


 アベルは、得体の知れない迫力を漂わせた笑みを浮かべて、すばやく体を起こした。冷ややかな美貌を彩る凄惨な笑顔に見惚れかけ、エステルは慌てて声をかける。


「お仕事ですね。行ってください」


 エステルの手を取り、指に口づけてからアベルは強張った笑顔で頷いた。


「引き止めてほしい、と思ってしまったのは俺のわがままですね。心残りと言いますが、俺の心はここに置いていきます。必ず戻ります。今晩はあなたの横で過ごすと決めていました」


 すぐに身を翻して、ドアに向かう。

 伸びた背筋、艷やかな黒髪をエステルはぼんやりと見送ってしまった。

 そのまま、ベッドの上でアベルの帰りを待ち続けた。空が白む頃になっても、ついにアベルは戻らなかった。



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