【終章】
第33話 休日の朝
(すっかり朝。一日が始まってしまう……)
アベルと打ち解けて話したあと、さてこれからどうしようとエステルが窓へと目を向けると、アベルはエステルの背に腕を回し、髪に口づけを落としながら言った。
「少し、眠いので寝て良いですか。本当に少しだけで良いので」
はっとエステルは先ほどの会話を思い出し、アベルを見る。
「昨日、ドアの前で膝を抱えていたって……陛下、寝てないんですか?」
「全然寝てないわけじゃないんですけど、眠れたとは言い難く。明るくなってから部屋に戻ったらエステル様が寝ていたので、横で俺も少し寝ましたけど……」
口づけでもするかのように体を倒してきたアベルは、そのままエステルの肩に額をのせて「眠いんです」と弱った声で告げた。思わず背を抱きとめながら、エステルは「無理しないで……」と腕に力を込める。さりげなくアベルもエステルを抱きしめつつ、くぐもった声で呟いた。
「部屋に帰る時間がもったいないので、ここで寝てます。朝食の準備が出来たら起こしてください。その後、一緒にでかけましょう」
「はい。……ここで?」
「大丈夫です、エステル様のお着替えをのぞいたりしませんから。ゆっくり身支度なさってください」
顔を起こして、間近な位置でにこっと微笑んでから、アベルはベッドに突っ伏した。
「ここで……寝……っ、寝ちゃうんですか……!?」
これから部屋で着替えたり顔を洗ったりしますけど本当にそこにそのままいるんですか? と言うに言えずにエステルは「陛下、陛下」とその体に手をかけて揺すぶってはみたものの。
ごろんと寝返りを打ちながら仰向けになったアベルは、目元に腕をのせながらぼそりと言った。
「エステル様が俺を寝させないというのならそれでも良いですけど。昨日の続きをはじめますよ。いまから」
「き、昨日の続き……?」
腕の位置をずらし、眠そうな目をエステルに向け、アベルは低い声をもらす。
「合意の上で少し早めの初夜を。朝ですけど」
「初夜に早めや遅めってありますか!? どうぞゆっくり寝て下さい!!」
皆まで言わせてなるものかと、エステルは手近にあった枕をひとつ取ってアベルの顔にぐいぐい押し付けた。「ん~……窒息する……」とアベルは呻いていたが、抵抗らしい抵抗は特にせぬまま横たわっている。エステルが不安になって枕をどけてみたときには、すでに目を閉ざしていた。
すう。
(寝てる……)
拍子抜けするほどに、健やかな寝息。
寸前までエステルの貞操を脅かしていた青年とは思えないほど、あどけない寝顔で。
ぼんやりと見つめてから、エステルは小さく息を吐きだした。
この十歳年下の王様は、エステルのすべてを見透かしたようなことを言い、ひどく大人びいた配慮をする。そのくせ、こんな甘えたようなことを言って、子どものように寝てしまうのだった。
(計算でも天然でも恐ろしい……。子どもの頃から片鱗はあったけど。こんな大人になるのね)
かつてエステルは彼の素直さや気高さに感じ入って、そのまま折れずに成長して欲しいと願った。それからかなり辛い経験をしているはずなのに、本質は損なわれることなく、少年の日のままの優しさでエステルを包み込んでくれる。
「……好き、です。お慕いしています。陛下」
声に出して呟いてから、エステルは我に返って立ち上がり、飛び退るように寝台から離れた。
近くに控えているであろうメイレンとダニエラを、声をひそめて呼んだ。
* * *
「今日は一日、ゆっくりしようと考えています。ここ数日仕事を詰め込んでいたので、休日です。エステル様も」
エステルがすっかり身支度を終えたところで、寝台でぐっすりと寝ていたアベルを起こす。
そのまま、窓辺に用意した席で朝食をとりながらアベルが言った。
いつも通り、向かい合わずに角を挟んで座っている位置関係であったが、エステルは体をひねり、アベルの笑顔をまじまじと見つめて尋ねる。
「休日。……というのは、つまり何をするんですか?」
「二人でのんびりします」
即答。にこっと抜群の笑みを向けられる。
“楽しみです。昨晩一緒に過ごせなかった分まで、今日はエステル様を満喫します!”
(満喫……!?)
咄嗟に返答できずに、間が空いた。アベルは目を輝かせて、ふきだした。
「俺はいつも、心の中でエステル様のことばかり考えているでしょう? いま、エステル様少し困りましたね」
明るい。
目を合わせたときに「心の声」が聞こえるというその能力について知った後も、アベルの態度は一切変わらない。
(心の声を聞いていたのは私の方なのに。その『能力』に気づいていることを気づかせなかったこの方の自制心はどうなっているのでしょう……)
「陛下には何度も驚かされます。『心の声』込みで会話を成立させようとしてくるというのは、さすがに予想外です」
「俺は読まれても全然平気なので、申し訳無さそうにしないで欲しいと思っていました。でも、エステル様の秘密をこれ以上無理に暴いたりはしません。言いたくないことまで全部言う必要はないです。あ、でも『好き』はできればたくさん言ってください」
さっきみたいに、と言い添えられてエステルは頬を染めた。
(寝てなかったの……!?)
アベルはお茶のカップをテーブルに戻しつつ、テーブルの下でエステルの手に自分の手をそっと重ねてきた。
「エステル様には、最初から俺がエステル様を好きなこと、バレていたんですね。国境でお会いしたあのときから。もちろんそこに嘘はなくて、その後もずっとエステル様とお会いするときは、エステル様のことだけを考えていました。知られたくないことを考えないようにしているというより、しぜんとエステル様のことばかり考えてしまうんです。今日一日何をするのかなとか、会わないときに少しは俺のことを思い出してもらえるかなとか」
手に力を込められ、エステルは顔を赤らめたまま答えた。
「陛下は陛下で、触れた相手の心がわかる能力がおありなのでは。私のことなど全部見通されているようで」
「さて、本当のところはどうでしょう。能力があっても無くても、俺は『好き』を心の中ではなく、ぜひ声に出して言って欲しいと願っていますが。今度二人で過ごすときがきたら、たくさん
天下無敵の、笑顔。
(二人で過ごすとき……。次に陛下が部屋にいらしたときは、きっと、早めの初夜を? 早めとは?)
同じくエステルも笑顔でこたえようとはしたが、どうしても緊張が走る。
予期していたかのようにアベルは目を伏せると、エステルの手を引きながら体を傾けた。指に口づけを落としてから、エステルの顔を見る。
煌めく星の光を宿した、深い青の瞳が切なげに細められた。
「エステル様……」
「はい陛下!! 良いところ邪魔をして大変申し訳有りませんけどそろそろよろしいでしょうか!! 時間がおしてましてですね!!」
唐突に、イグナーツの元気いっぱいの声が割って入ってきた。
エステルは目を丸くして、その場に飛び込んできた赤毛の宰相を見た。イグナーツはエステルににこっと微笑んでから、アベルへと向き直る。
「朝から仲がよろしくて結構、結構。昨日あのタイミングでお二人の邪魔をするのは仕事とはいえ胸が痛みましたし、陛下が廊下で膝抱えて一晩過ごしているのを見たときなんか涙を堪えて『陛下、イグナーツはこの命ある限り一生陛下についていきます!!』って思いましたけどね!! いざ朝から砂糖を煮詰めてはちみつとまぜたような空気をこう、ぶわっと展開されますと胸がうじゃじゃけて……耐えきれないんですよ。わかります?」
「耐えきれないと何がどうなるんだ。こうして邪魔したくなるのか?」
切々と訴えかけるイグナーツに対し、アベルは底知れない笑顔で応対しつつ、席を立った。
イグナーツは自分の襟元を指で整えながら咳払いをし、アベルと向かい合う。
「今日はエステル様と遠出のご予定でしたでしょう。帰ってくる時間も考えるとそろそろ出発しないと。馬車の中で寝てて良いですから」
「そうだな。食べ物とお菓子をたくさん積んで行こう。エステル様、着替えてきますので外でまたお会いしましょう」
いつの間にか綺麗に食べ終えていたアベルは、イグナーツと連れ立って肩で風を切るように歩き出した。
あまりの切り替えの早さに置いていかれかけて、エステルは小走りで追いかける。
「イグナーツ。ミリアム嬢を探してくださってありがとうございました。もうバルテルスの王都に戻ることはないでしょうし、お会いすることもないものだとあきらめてはおりましたが、戦争で行方不明になっていたとあっては……」
心得ていたかのように、イグナーツは胸に手を当てて軽く一礼をした。
「ご無事ですし、エステル様にもお会いしたいと、本人たっての希望もありました。馬車で半日かかりますので、早速参りましょう。お昼過ぎには着くはずです、会いたい人は皆」
“それでエステル様の心が晴れるのであれば”
(……? 会いたい人は皆? 他にも誰か?)
変わった言い回しだった気がする、と思いながらエステルは二人を見送った。そして、慌ただしく出立の準備をはじめた。
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