第23話 幸せへの道筋を

 朝食後、アベルが去るとエステルは執務机に向かう。前日遅くまで目を通していた書類を確認しつつ、まだ読んでいないものを読み始める。

 しかし、ふとした瞬間にその手が止まる。


(私は、本気で幸せになろうとか、幸せになりたいと思ったことがなかったのかもしれない。ひとからみたときに「幸せそうでなければならない」という義務感があっただけで)


 エステルは、物心ついた頃から「自分は恵まれているのだ」と自覚していた。王女としての生まれ。何不自由のない生活。「だからこそあなたは、誰よりも他人に尽くすことが求められるのです」と、身近な教師たちに言われ続けてきた。王族というのは、そういうものなのだと。


 アベルから示される愛情にうまく応じられないのは、そのせいもあるに違いないとエステル自身気づいている。

 結婚に際して「二つの国が末永くともに歩んでいけると示すために、王と王妃は幸せな姿を国民の前に見せなければならない」と考えていた。だが、いざそれが「自分の幸せ」を前提としているのだと気づいた途端に、及び腰になってしまっている。恋愛に対する忌避感同様、個人の幸せに対する後ろめたさもまた、持ち合わせていたらしい。

 そして、アベルからの愛の言葉を受けるたびに、実はアベルもまた同様なのではないかと感じることがある。


(あの愛情表現は、ひとえに「つい最近まで敵だった国の真っ只中」にいる私に、不安や孤立感を覚えさせないためのサービスなのでは……。心の声が聞こえていてさえ、そう思ってしまうのは、私を甘やかすあの方自身が、ご自分のことは決して甘やかしている素振りがないからかもしれない)


 ひとたびアベルが自分の元を去ってしまうと、その去り際の鮮やかさゆえについそんな考えが頭をもたげてくる。愛されているというのは錯覚で、エステルに対するあの態度そのものが、「政略結婚」に踏み切ったアベルの仕事の一環なのではないかと。

 そんなことを考えている場合ではないと、書類読みに戻ろうとするが、気がつくと手が止まる。そのたびにいけないいけない、と思い直す。

 なんとか資料に集中し始めた頃、新たな書類の山を抱えたイグナーツが部屋を訪れた。


「お待たせしました、探し人に関しては追えるだけ追いました。元の勤め先といまの状況、わかる範囲でまとめたリストです」


 エステルの前に何人もの人名と詳細の書き込まれた紙を差し出す。

 礼を言ってそれを受け取り、エステルはさっと目を通した。


「やはり、この戦争で当主を失うなどして、没落している貴族も多いですね。そこに勤めていた料理人や庭師、メイドなど技術を持つ方々が仕事にあぶれてしまっている……。こういった方々に仕事口を斡旋して、人材の流出を防ぎ技術を保全する必要があるはずです。リストのこの方とこの方はすぐに連絡がつきそうですが、救貧院の調理場に雇い入れることは可能でしょうか。貴族のお屋敷で掃除や洗濯を担っていた女性は養護院へ。環境の整備と、子どもたちへの技術の教授が目的です」


 行儀よく耳を傾けていたイグナーツは、エステルが言い終えると「そのように手配します」と即座に答えた。そのまま、目を輝かせてエステルに笑いかける。


「王侯貴族はふつう、庶民が自分たちのような暮らしをするのをよく思わないものかと」


 試すような、探りを入れるような一言。エステルは気を抜かずに、きっぱりと答えた。


「たしかに、特権意識に凝り固まった方はいるかもしれませんが、これからの時代はそんなことは言っていられません。私は国にいるときに、貴族お抱えだった料理人が街で料理をふるまう店を開いているのをいくつか見ました。いずれも、庶民の間ではまったく知られていない技術を駆使して美味しい料理を出していて、好評のようでした。ご自分でうまくそういった道を切り開く方もいるとは思いますが、そうではない方にはある程度道筋をつけるのも必要かと考えています」


「なるほど。しかし技術者の中にも『安売りしたくない』と考えて、貴族の館以外では働きたくない者もいますからね。いまのご時世、貴族とて余裕があるのは一握りだというのに……」


「本人がどうしても嫌だというのなら無理強いはしません。仕事を求めている方はたくさんいるはず。城で雇い入れる者を増やす方法もあるかもしれませんが、一度に出入りの人数が増えるのは防衛上でのリスクもあるでしょう。まずは公的な資金を投入しても問題ない施設から……、そのためにも現地の視察も欠かせません。特に養護院などは年端のいかない子どもが多く、ともすると大人の搾取の対象になりやすい。健全な運営がなされているかは定期的な視察が必要です。ときには抜き打ちでも」


“うん。エステル様は面白い”


 イグナーツの心の声は、表情とまったくブレがない。その通りの楽しげな様子で、さらりと言う。


「いきなりの抜き打ちは反感を買いますよ」

「抜き打ちというのは『いきなり』するものではないのですか」


 エステルもまた淡々として返す。ついにイグナーツは「あっはっは」と声を上げて笑い出した。


「先方に訪問は三日後とお伝えしていますが、エステル様の市街地めぐりに関しては今日から予定を組んでいます。たとえばなんですけど大聖堂に寄ったあと、広場の屋台で揚げ菓子などを買って、その足でついでだからと養護院に行くことは行程上それほど無理なくできるはずです」


 すぐさまなされた提案に、エステルは内心舌を巻く。


(さすが名宰相と言われるだけありますね。私の考えなどはじめから見透かしていたかのよう)


 リストを頼んだ時点で、何を言い出すかは予測されていたとしか思えない。それならそれで話が早い、とエステルもまた微笑みかけた。


「屋台の食べ物を買い占めるのはあまり良くないですか?」


「資金に関しては無駄遣いと言わずに国庫から捻出しましょう。買い占めは市民がお腹をすかせてしまうかもしれませんし不満も出るかもしれませんので、手分けして何軒かで買い求めるのがよろしいかと思います。弟のエリクがそのへんに長けていますのでうまく使ってやってください」


「わかりました。ありがとうございます」


 話が済むと、イグナーツは「それでは行程の変更も含めて周知致しますので、エステル様は外出のご準備を」と言って忙しなく立ち去ろうとする。

 しかし、背を向けてからすぐに、思い出したように振り返って言った。


「陛下、エステル様の前ではデレデレかもしれませんが、きちんと仕事していますからね! そのへんはできる子なのであんまり心配しないであげてください。お二人で顔を合わせている時間は、仕事の話ばかりしなくても大丈夫ですよ」


「共通の話題が……、仕事なので……」


 すべてわかっていると言わんばかりの発言に、エステルが言葉をつまらせつつ答えると、イグナーツは「そうですよねえ……」としんみりとして頷いてからドアを出て行った。

 いなくなった後の空白をぼんやりと見つめてから、エステルはほっと息を吐き出す。


(私も、恋にうつつを抜かしている場合ではなく、しっかりしなければ)


 自分が幸せになる前に、幸せにしなければならないひとがいるはず、と。

 国の頂きである王と王妃が幸せな姿を見せるというのならば、国民にも幸せの道筋をきちんとつけておかなければ。

 そのためにも、城にこもってばかりではいられない。恐れずに外へと出ていこう、と準備のために立ち上がる。

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