第26話・希望の名

 家ソリから、宇迦之御魂うかのみたまは顔を出して、追い出されていた男衆に言った。


「入ってきな! 特にアダム! あんたの子が生まれたんだ! さっさと抱いておやりよ!」


 宇迦之御魂うかのみたまは少しだけ妖しげな笑を浮かべている。今にも喜び飛び跳ねるのではないかと期待していたのである。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 だが、その宇迦之御魂うかのみたまの期待は裏切られたのである。抱き方を宇迦之御魂うかのみたまから教わり、綿にくるまれた我が子を抱き上げると、アダムは固まったのである。

 喜びが限界を突破してしまったのだ。声を上げるどころではない、涙を流し我が子の愛しさを噛み締めた。同時に新たな命の芽吹きを寿ことほぐ事を、どうして我慢できようか。それは決して、いかなる存在をもってしても不可能であった。

 家ソリは喜びに満たされている。これ以上は存在しない、飽和状態だ。


「よし、ナァ名前だ!」


 だから、最初に彼らに代わって素戔嗚すさのおが口を開いた。いざ、名をつけるのだと。

 そこからは、大変だった。四人で徹底討論が始まってしまったのである。


「俺は、ウカから、カが欲しい! ウカの名前から音をもらえば、この子は食べ物に困らないだろう!」


 アダムは言った。最初の男の子に、食物の知恵を無数に与えてくれた宇迦之御魂うかのみたまの名に刻まれる音を欲した。


「よしとくれ! 言い間違いなんだ! それじゃ、この子が言葉を覚えるのが遅れるかも知れない! そうなっちゃ困るだろ! それよりイウ人※特にサピエンスのことだ! お前たちの種らしく、信じる心を忘れないで欲しいね!」


 宇迦之御魂うかのみたまは主張する。子供の名前とは大変なものだ。次の世代の希望そのものに、名を与えなくてはならない。世界一責任重大な仕事である。


「俺はネーためにが欲しい。群れのために、必死になれたお前たちの尊さを忘れないで、永劫受け継いで欲しい!」


 素戔嗚すさのおも主張した。それぞれが、それぞれ子に託す願いを主張し一歩も譲らない緊迫感が漂う。

 そこに、エヴァが一石を投じた。


「ねぇ、この子のナァ名前なんだよ! ウカの流れを次いで濁した音の名前がいい! それに、私はみんなが込めてくれた願いがすっごい好き。だから、この子はカイン! カイネでもいいけど、もうちょっと濁して……ね?」


 誰も、彼女が言った名に叶う名前を思いつかなかった。なにせそれは、全員の案をまとめて一つにしてしまう欲張りセットだったのだ。


「いろんな解釈ができるな……。最後ンはウカの元、ンクェ食べ物からか! こんなに食べ物のことが入ってれば、絶対に飢えないな!」


 アダムの飢えないようにという願いはしっかりと刻まれていた。


「はぁ、濁すのも流れか……。イウからも音が取られてる。文句言えないじゃないか……」


 ンクェという正しい発音からも音が取られている。たった三文字にこれでもかと願いが込められている。濁すのも、ウカから続く名前の基本がしっかりと抑えられていた。


「ンにネーからも音の要素を当てたのか……。欲張りだなぁ。全員分欲しいとは、こりゃ気分がいい!」


 素戔嗚すさのおの口癖の原型はここにある。エヴァと名付けた最初の命、その感動を忘れぬ為に想起するために。度々口にするのである。彼の口癖は、悠久だ。


「敵わないな、エヴァ。君はやっぱり賢い。俺も頑張らないと!」


 アダムは一層奮起した。


「みんなが願いをくれたから、私はひとつにしただけ。みんなで付けた名前だよ! この子はカイン! アダムとエヴァの長子」


 先に生まれたのはカインである。未だ知識が足りない生物たちには、生まれた順がそのまま兄弟の順だ。これにてまずは、長子カインの名が決まった。

 エヴァは誇らしかったのだ。私はこんなに素敵な相手を見つけたのだと。だからこそ、少しだけ謙って、そしてついでに誇った。


「んじゃ、二人目だね! よし、この子にはアンを入れたい!」


 宇迦之御魂うかのみたまが真っ先に言った。

「いいじゃねえか! じゃあ、俺からはカだ! こいつにも加護をやってくれよ!」

 素戔嗚すさのお宇迦之御魂うかのみたまの名前を気に入っていた。だから、このどちらの子にも入れたいと思ったのだ。


「それじゃ俺はからは、ナール。カインが食べ物なんだから、飲み物の担当も必要じゃないかって思ってさ……。エヴァ、まとめられる?」


 賢い女性エヴァ、それに頼ることをアダムはもう恥と思わない。他に選択肢はないが、それでもアダムはエヴァ以外に同じ種の愛を向けられるとは思えなかった。


「じゃあ、カナン! この子はカナン!」


 この時代に男の名前だの女の名前だのという概念はなかった。ノアの子にはセム、ハム、ヤペテの三人がいる。そのうちのハムの子の名として再登場を果たす事になる由緒正しい名が生まれた。だが、女の名前が起源だったことを後世の女性蔑視の世界では隠さねばならなかったのである。


「エヴァ! あんたは名づけの天才だ!」


 ただ、そんなことは遠い未来のこと。今は誰も知らず、お互いが重ねた議論を、出された案を、たたえ合う時間が訪れた。

 宇迦之御魂うかのみたまももう、喜びが有頂天だ。カが使われてしまった不満などどこかへ消え失せてしまった。

 子供は宝である。その考えは、この時に始まった。

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