第4話・サピエンスの力

 アダムは大変だと思っていた。

 火を起こすときに、両手ですりすりしなくてはならないのが、たまらなく疲れると。

 とはいえ、アダムの発明した紐は、まだまだ硬いものやすぐにちぎれてしまうものばかりだ。


 咀嚼と消化、そのために寝転びながらアダムは考え続けた。もっと強靭で、それでいて柔らかいものが欲しいと。

 それは、遠くネアンデルタール人の文化圏でも同じ悩みを持つ者がいた。

 そう、サピエンスとネアンデルタールは、この時同じ設計図を頭に抱いていたのだ。


「よ!」


 その、ダラダラゴロゴロのアダムの所に、宇迦之御魂うかのみたまがやってきた。


「ウカ! ごめん、まだ自分のことをなんていうか思いついてないよ……」


 アダムは少し、申し訳なさそうに。

 名前という言葉はなかった。ただ、自分を表す識別子という概念が先にあったのだ。


「なんだいそりゃ!?」


 相変わらず、宇迦之御魂うかのみたまの発音は雑だ。


「いや、だって、ウカだろ?」


 アダムはその識別子こそがウカであると思っていたのだ。


「いや、食べ物って言おうとしてたんだ。ほら、あたしは言葉下手くそだから」


 言い回しは完璧である。だが、発音は完璧といい難い。なにせ、口の形がまだ観察不足だったのである。


「え!? あ、アレそういうことだったのか!? あ、でもそれいいんじゃないかな? いろいろな食べ物を作ってるんだろ?」


 実際の言葉から、少し濁らせて名前にする。そんなことをアダムは思いついたのだ。


「そっか、じゃあ食べ物を作る者! ナァ・ウカだ!」


 原始シュメール語で、空はンナァと発音した。この最初のンが宇迦之御魂うかのみたまには発音できなかったのだ。よって、その発音がナァとなった。空のウカと言いたかったのが、ナァという言葉を生んでしまったのである。

 ウカはこの時標高の高い所に住んでいた。高いところというのは気温が低く最終氷期前のこの地球のアフリカの唯一の避暑地だった。そう、宇迦之御魂にとってここは暑いのだ。


「ナァ! 自分のことを、君の種はそういうのか!?」


 勘違いが文化を作った歴史など、人類史には無数に存在する。無知だった人類であれば、それは尚更頻発した。


「いや! ちがくて……。あぁ、なんでこの口は……」


 発音が完全にできない自分の口に憤る宇迦之御魂うかのみたま


「あ! 空か! ごめん……。でも、ダメかな? 自分のこと、ナァ……」


 アダムは気づいた。これまでに、いい加減な宇迦之御魂うかのみたまの発音はたくさん聞いてきたから。


「うーん。癪だけど、まいっか! 自分のことを示す物。ナァ。ア・ナァ・ウカ!」


 原始シュメール語における一人称は『エ』である。だが、宇迦之御魂はこの『エ』の発音が苦手だ。この『エ』というのが厄介な母音であり、『ア』と『イ』の中間なのだ。そして、イヌ科が元々もっていう母音は『ア』と『ウ』と『オ』故に、宇迦之御魂うかのみたまはどうしても音が『ア』に寄ってしまった。

 すると、言葉の意味が変わってくる。


「源の名前は、ウカ! 素敵な表現だ!」


 と、こうなってしまったのだ。


「もうそれでいいや……」


 宇迦之御魂うかのみたまはがっくりとうなだれた。

 だが、ふと思い出したのだ。


「あ、そうだ。なにか悩んでなかったかい?」


 だから、宇迦之御魂うかのみたまは訊ねた。悩んでいるのなら、どうにかしてやりたい。

 怒りを買っているが、その怒りは気に入ったが故のものである。


「あぁ、紐がね、すぐ切れてしまうんだ。切れない紐が欲しいんだ……」


 とアダムは訴えた。

 人類の知恵は宇迦之御魂うかのみたまと遭遇後、爆発的に上がっている。


「あぁ、それなら、あんたと似たのが作ってたよ! 確か、植物を叩くんだ!」


 石器先進民族は、サピエンスでは無い。ホモ・エレクトロスである。

 サピエンス種で紐を発明したのはアダムだったが、エレクトロス種はもっと先に行っていた。


「え!? それでできるの!? 教えてくれ!」


 と、アダムは宇迦之御魂うかのみたまに詰め寄る。


「お、おう。あんたたちの特徴は、とりあえず信じて試してみることだね」


 人類は信じることによって、発展してきた。宇迦之御魂うかのみたまはそこが一番気に入っているのだ。

 それから、宇迦之御魂うかのみたまは近くのつる植物をアダムにあれやこれやと届けた。

 そして、アダムはそれをひたすら叩いてみた。やがて、適した物が見つかったのだ。

 それは意外にも木だった。薄皮一枚剥ぐと、なかから大量の繊維が出てきたのだ。これがラフィアというヤシ科の樹木であった。


 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「あんたすごいね! これ考えてたのかい!?」


 それは、木をまっすぐ固定する係と、紐を左右に引っ張る係に分かれて火を起こす道具だった。これを現代日本では、ひもぎり式と呼ぶ。


「うん! イブと二人なら、こっちが楽だと思うんだ」


 アダムはそれの完成に、思わず微笑んだ。

 賢さなど無限にあっても、時として無駄になる。教えられたこと、見てもいないのに信じてみる。サピエンスの科学にはこのようにして炎が点った。

 一旦信じてみるというのは、サピエンス特有の感覚なのだ。生存戦略としては大間違いであり、突き詰めて最大の成功に変わった。だが、見もしないことを信じて滅びたサピエンスの民族は少なくない。


「試してみよう! 成功したら、これをイブと二人で広めるんだ!」


 と、宇迦之御魂うかのみたまとアダムは、前回のように頑張れ頑張れとやったのである。


―――

※信じすぎて絶滅した民族は、ネイティブアメリカンを具体例に挙げられます。

元々はアステカ神話を信奉する民族でした。その民族に主神ケツァルコアトルは次のような予言を残したと言われています。

「一の葦の年、私は戻ってくる」

その一の葦の年、輝く白い肌を持ったスペイン人がアメリカ大陸、メキシコに上陸しました。

ネイティブアメリカン……アステカ帝国の人々は、彼らをこのケツァルコアトルであると信じました。

言われるがままに、行動し、もてなしました。ですが、相手は侵略者なのです。

要求は全てアステカ帝国の人々が不利になるものばかりでした。ですが、彼らは神だと思っていたのです。それは、遠い将来の利益なのだと信じたでしょう。

滅んだのは、信じすぎた結果なのではないかと思ったのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る