第40話・水の革命

 肉は在庫があった。最近の獲物はもっぱらバイソンの原種であり、取れる肉の量はとてもじゃないが一日では食べきれない。


「さて……水にもこだわるか!」


 そんなことを言いながら宇迦之御魂うかのみたまは大きな石を持ち上げた。


「どうするの?」


 エヴァは気になって訊ねる。水など、これまで一度もこだわったことがない。

 そう、この頃のサピエンスは泥水だって気にせず飲んでしまう。生水も関係ない。強い胃酸で簡単に殺菌できた。胃のバリア機能も強く、腹を下すこともない。火を使い始めてから、その点はマイナーチェンジされてしまったのである。


「こうする!」


 宇迦之御魂うかのみたまは拾い上げた大きな岩を、ほかの岩でゴリゴリと削り始めたではないか。どう見てもエゼムの群れでは奇行にしか見えなかっただろう。だが……見ているのは天才エヴァである。


「削ったところに水をためるの!?」


 そう、何をしようとしているのかわかってしまうのだ。そんなの、この当時のサピエンスの中では、超変人である。


「そのとおり!」


 そう言いながら、宇迦之御魂うかのみたまはものすごい勢いでゴリゴリと続けた。

 二トンはあろうかという巨石を宇迦之御魂うかのみたまは軽々と扱うのだ。気が狂っているようにすら見える。


「そういえば、最近お水飲んでなかったや! 手伝えることある?」


 アダムとエヴァはこのところ純粋な水は飲んでいない。ほとんどココナッツミルクだの果汁だので水分補給をしている。


「あんたはアベルとアメナを頼むよ!」


 そう言いながらも宇迦之御魂うかのみたまはずっとゴリゴリと石を削り続けた。そして、まるで臼のような形になったのである。

 宇迦之御魂の怪力もなかなかのものだ。神は人類とは膂力も桁違いである。その臼のようになった石をひょいと持ち上げて、水を汲んだのである。

 そして似たようなものをもう一個作り始めた。神という名の文明ブーストである。


「そっちは水を貯める用?」


 エヴァは訊ねた。


「そうさ! ここに貯めて、ほら、あの甘い汁が詰まった果物で掬って飲めばいい!」


 と、ちょっと自慢げに答えるのであった。


  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ほどなくして、臼のような石は二つになった。その片方を高いところに置き。片方を地面に置いた。その二つの臼を、植物の茎を曲げて作ったものでつないである。


 こうすることで、水は毛細管現象を起こし、低い方の臼に移動する。その過程で、繊維たっぷりの植物の茎を経由するのだ。勝手に不純物は濾過されてきれいな水が出来上がる。


 石器……いくらなんでもこれは、大掛かりである。それに今は紀元前80万年。考古学という学問が起こる頃には風化しているものだろう。だから、宇迦之御魂うかのみたまは遠慮なくそれが作れた。


「ま、時間はかかるか……。だが、ほい! エヴァ飲んでみな!」


 と、本の一口分。ヤシの実で作ったコップに水を汲んで、エヴァに渡した。

 喉を鳴らして、それを嚥下するエヴァ。次の瞬間、エヴァは驚いた顔をした。


「すごい! ほんのちょっと木の香りがするだけ……。むしろ、美味しい!」


 木の香りとはリラックス効果を持っている。それはもはやハーブティーのような水だったのだ。原始人が飲んだら、そりゃビックリである。


「だろ!? 時間が経てば、たっぷり貯まる! これからは、この水が飲めるようになるさ!」


 原始人は泥水を卒業した。これによって、人類の胃腸は一気に省エネ化していくことになる。消化に必要なエネルギー量は減り、スピードは向上する。その代わり未調理の食べ物を食べられなくなっていくのだ。

 地球のモブキャラだったホモなんちゃらが一気に地球の覇権へと歩みを進める。


「すごいよウカ! こんなお水すっごい贅沢!」


 エヴァにとって、否、サピエンスにとって大改革。だが、まだまだ序章である。肉体の進化は、始まったばかりなのである。


「まってるだけで、いくらでも手に入るんだぞ!」


 ここは中東。砂漠のオアシス。水の価値はいくら温暖湿潤期とはいえ、水の大国日本とは違う。


「まるで、本当に夢みたい……」


 澄んだ水がいつでも飲める。本当に、この時期の人類にとってはありえない幸福である。

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