23. 赤い秋桜と紅い薔薇
黒く輝く車体をきらめかせ、煙突から白い蒸気をゆらめかせて自動車が去っていく。
朔夜は荷物を持って固まったまま、自動車が角を曲がるまで見送っていた。
「あの、朔夜。ごきげん、よう」
「や、やあ」
彼は困ったような半笑いを浮かべている。おそらく私も同じ表情だ。
「あ、ほら、ここが私んちなんだ」
指さした後で気づく。朔夜、来たことあるから知っているのに、なんでいちいち紹介したんだろう私。
「どうぞ。入って」
前に朔夜たちが来た時、暑そうな麻田さんに部屋へ入ることを勧めた。あの時は「朔夜も部屋に入る」という事実に対して、特に感情は動かなかった。
あくまでも、「麻田さんのため」だったからだ。
私が朔夜の家に行ったことはある。しかしあそこは使用人が出入りしているし、広くて綺麗すぎて、うまい言葉が見つからないが、「俺んち」という感じがあまりしない。
しかしうちは違う。
違うのだ。
招き入れた我が家は、父と私の部屋の二間ある。表通りに面した角部屋で、長屋の中では広い方ではあるが、朔夜の家の寝室よりも狭い。
朔夜は興味深げに部屋の中を見回していた。
一応片づいているし、木の床や机は
彼の目が窓際で止まった。
「あ、コスモス」
窓際に飾っていた赤いコスモスを見て微笑む。
「そうそう。かわいいでしょ」
彼は頷き、私を見た。
「うん。この赤いコスモス、力強さと、明るさと、守りたくなるような繊細さがひとつになっていて」
目じりが柔らかく下がる。
「瑠奈に、そっくr」
語尾を濁し、窓際のコスモスのように頬を紅潮させる。
そして勢いよく荷物を私に渡してきた。
「これ! 参考書! あとこれささやかなものだけれど、チョコレート! 食後に食べよう!」
いきなりどさりと手渡され、さすがの私も少しよろける。
革で
小箱を開ける。中には薔薇の形をしたチョコレートが六粒入っていた。
深紅の箱に抱かれて褐色の滑らかな肌を光らせ、ころんころんと並んでいる。ふんわり漂う香りに、唾液腺がじゅわっと反応した。
「ほええ、かわいいねえ。おいしそうだねえ。ありがとうう」
「ふふ。チョコレート、好き?」
「うん。大好き! 二、三回しか食べたことないけど……」
そこであることを思い出し、心配になった。
「ねえ。私はチョコレート好きだけれど、朔夜、食べても大丈夫なの?」
「うん。甘いもの好きだし」
「いや、そうじゃなくてね。チョコレートって、食べちゃ駄目なんじゃなかったっけ」
「え、別に問題は」
そこで私の心配の意味に気づいたのか、くすくすと笑いだした。
「あのな。俺、犬じゃないんだけど」
「えっ、狼はチョコレート大丈夫なの」
「そうじゃなくて」
右手が上がり、下ろされ、躊躇いがちにまた上がる。
ぽす、と私の頭の上に手が置かれる。
「人間と全く同じように接してくれても問題ないから。気を遣ってくれてありがとう」
彼の手の感触が、体温が、じわじわと伝わるにつれて頭がチョコレートのように溶けそうになる。
いろんな恥ずかしさが体の中を駆け巡り、別に悲しくもないのにじわりと目が潤む。それに気づかれないよう目を大きく見開き、朔夜を見上げる。
彼と目が合う。夜空色の瞳が私を映すと、彼は手を離し、後ずさった。
私から視線を外さないまま呟く。
「かっ、かわい……」
「河合?」
「は? 河合?」
「今、言ったじゃない。河合って」
私の周りに河合さんという人はいない。いきなり人名を出してきた彼に戸惑う。
だが彼は私の質問には答えず、両頬に手を当てて大きなため息をついた。
「瑠奈、少し早いけれど勉強の前に昼食を摂ろうか」
「朔夜、お腹空いたの」
「いや、なんというか、一度冷静になりたいんだ。これ以上ここにいると、別の意味で狼になりそうだ」
その言葉で気づく。そうだ、今日は満月に比較的近い。まだ大丈夫だろうと油断していたが、発熱の兆候でもあるのだろうか。
「別の意味」というのがよくわからないが。
「ちょっと。変身しそうなら食事へなんか行ったらだめじゃない。大丈夫なの。熱あるの。ほら、ぎゅうってするから」
「いや、やめてくれ。余計狼になる」
「えっ。ぎゅうってすれば変身が止まるじゃない。ほら」
「瑠奈、あのな」
私の両腕から逃げ出し、腕を突き出して拒絶の仕草をする。
「ええと、なんというかだな。ああ、そういえば瑠奈は読解が苦手だったんだよなあ……」
何故ここで読解が出てくるのだ。
確かに私は読解が苦手だ。ざざっと文章を読んで解答する癖があるので、作者がこっそり潜ませた意図を見落としてしまう。
それが今、なにか問題なのか。
「瑠奈、ごめん。余計なことを言った。変身の兆候はないよ。お腹が空いたから昼食にしよう。またあの飯屋に行きたい」
あの飯屋、というのは、前に行った玉鉤国料理の飯屋のことだろう。
確かにあそこはおいしい。それに厨房をこっそり覗いて、紅子の恋人はどの人かなあと探してみたい気もする。
だが朔夜は、本当にあの飯屋でいいのか。
「ねえ。あの飯屋さ、もしかしたら望夢君の行きつけじゃないのかなあ。もしそうならまた遭遇しちゃうかもよ」
私の懸念は彼も同じなのだろう。軽く頷いた。
「うん。だから店内に入ってすぐ『開いて』、いるかどうか確認する。今の時間ならそれほど混んでいないだろうし、前のようにはならないと思う」
「そうかあ。あ、できれば入り口から近い、でも入り口すぐじゃない、みたいな席に座れればいいよね。そうすれば後から望夢君が入ってこようとしたときに、私たちと目を合わさずに外へ出られるじゃない」
じゃあそうしよう、ということにはなったが、どうにも心がすっきりしない。
私たちは何も悪いことをしていないのに、何故隠れないといけないのだろう。
それに、この間のことでわかった。
望夢君は、単純な好き嫌いや見下しだけで突っかかってきているのではない気がする。
若干もやもやしたものを抱えながら通りに出、しばらく歩くと、馬車が私たちを追い越していった。
よく大通りを流しているタイプの馬車だ。走っている所を捕まえて、乗車料を払って目的地まで連れて行ってもらう、というシステムで、私もたまに使う。
その馬車は少し先で急に停まった。
危ないなあと思っていると、馬車のドアが開いた。
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