3. 暗闇に落ちる前に

 泥沼から這い出すように目を覚ます。また机に突っ伏したまま眠ってしまった。

 夜中に工場から帰り、勉強をして、ふっと意識が遠くなると朝になる。父に代わって罐焚きの仕事を始めてからは、大抵こうだ。

 体が重い。九割くらい眠った状態で体を拭き、制服に着替える。

 今日を乗り越えれば明日は学校も仕事も休みだ。少し寝られるし父のお見舞いへも行ける。そう何度も心の中で自分を励まし、なんとか地下鉄に体を押し込んだ。


 学校の近くになると、急に馬車や自動車の数が多くなる。蹄や車輪、エンジンの音ががんがんと頭に響く。こめかみを押さえながら歩いていると、背後から明るい声が飛んできた。


「瑠奈あー、ごきげんよーう」

 

 振り返ると、同じクラスの大河内おおこうち 紅子べにこが満面の笑みを浮かべ、深紅のオープンカーから身を乗り出すようにして両手を振っていた。


「あ、ごき」


 げんよう、という言葉の続きを待つ間もなく、彼女は髪に結んだレースのリボンをひらめかせ、私を追い越していった。

 紅子は私と同じ混合予科クラスだ。人気者の彼女にとって、私は単なる級友の一人なのかもしれないが、私にとっては大切な友達だ。

 彼女は他の人達みたいに私を見下さないし、嫌味も言わない。級友として対等に話してくれる。


 校門をくぐると、私のそばをひときわ立派な自動車が通り過ぎた。

 黒塗りの巨大な車体は周囲を圧倒している。他の自動車に格の違いを見せつけているかのようだ。


 その自動車が通り過ぎる瞬間、窓からちらりと鴻君の姿が見えた。

 ガラス越しに目が合う。すると彼はふいっと俯くようにして顔を逸らした。

 なんで顔を逸らすのよ、と思ったが、そこでふと気がつく。

 

 そうだ。鴻君とのやりとりって、成績争いが殆どだけれども。

 煽られたり悔しがられたりといった会話の記憶ばかりだけれども。

 あれって、私と対等な場所に立ってくれているからこそ、だよな。




 今日最後の授業が終わった途端、疲労感と安堵がどっとのしかかってきた。

 授業が終わって安堵するなんて、私、どうかしている。今夜はしっかり復習をしないとまずいかもしれない。

 椅子から立ち上がると、激しい頭痛に襲われた。少し遅れて吐き気もこみ上げてくる。なんとか帰り支度をして教室を出るところで、目眩を起こして男子にぶつかった。


「うわ、汚ねっ。凄え汗」


 去り際に舌打ちをされる。言われて額に手をやると、水でもかぶったのかと思うくらいの汗をかいていた。


 一体どうしてしまったのだろう。体調なんか崩している場合じゃないのに。工場を休むわけにはいかないのに。

 耳の聞こえが悪くなってくる。教室の方から鴻君が私の名を呼んでいるような声が聞こえたが、きっと気のせいだろう。列車に乗れば、工場の最寄り駅に着くまで座れる。その間になんとか回復させよう。


 どこをどう歩いているのかよくわからない。脚が無意識に動いているのだが、多分地下鉄道チューブの駅に向かっているとは思う。

 蒸し暑い。頭が痛い。気持ち悪い。

 体調に負けるな。仕事に行かなきゃ。頑張れ、頑張れ、頑張れ……。


 そんなことを、ずっと考えていたように思う。だが私の記憶は、そこで幕を引くように途切れた。

 暗闇に落ちる前のわずかな記憶の残滓ざんしは、遠くから私を呼ぶ声。

 そして、大きな手のぬくもり。




 全身を何かが柔らかく包み込む感触。真綿に包み込まれると、多分こんな感じなのだろう。

 静かだ。エンジンの唸りも人々の喚き声もなく、ざわざわと葉が擦れ合う音だけがする。

 風が頬に触れる。煤煙や下水の臭いではない、露を含んだ緑の匂いがする風。

 感触も、匂いも、何もかもが穏やかで清潔だ。


 ゆっくりと目を開ける。私は知らない部屋のベッドで寝ていた。

 天井には繊細な模様を施した照明が吊り下げられており、私に向かって光を落としている。状況が掴めずぼんやりしていると、視界に黒いフロックコートを着た中年男性が入ってきた。


「よくお休みになれましたか。おかげんはいかがでしょうか」


 服装からして彼が医師なのはわかるが、ここはどう見ても病院ではない。上体を起こすと、さっきまでの不調はなんだったのかと思うくらい体が軽くなっていた。


「皮膚や舌、脈の様子からして、大きな病気ではなく、過労と睡眠不足、それと食事の偏りが原因の不調でしょう。このような状態の人間には、麦飯と青菜、畜肉が効くといいます」


 「人間には」なんて、面白い言い回しをする。医師は私がお礼を言う前に、頭を下げて部屋を出て行った。


 ばたん、というドアの閉まる音と共に、頭が動き出す。

 それと同時に全身から血の気が音を立てて引いていく。

 窓の外を見る。六月の空は既に暗く、背の高い木々の向こうから六月の満月ストロベリームーンが白い光を放っていた。

 どうしよう。工場を無断で休んでしまった。


 ベッドから飛び起きる。傍らに揃えて置かれていた作業靴を履くが、手が震えて上手く紐が結べない。急がなきゃと思う気持ちが却って体の動きを鈍らせる。


 早く、早く行かなきゃ。大遅刻になってしまうが、無断休みよりはまだましだろう。工場長と汽罐長に誠心誠意謝って、なんとか許してもらわないと。

 体力が必要な分、比較的稼ぎのいい罐焚きの仕事は人気だ。無断で休んだりしたら、すぐ別の人に職を奪われる。

 そうしたら父の病気が治った時、働く場所がなくなってしまう。あの場所は、父の誇りであり、生きがいなのに。

 

 視界が滲む。唇を噛みしめる。それでもなんとか靴を履き終えて立ち上がると、ドアが静かに開いた。


 混乱した頭の中に、更に混乱が飛び込んでくる。

 入ってきたのは鴻君だった。

 学校ではいつも寸分の隙もない身なりをしているが、今は袖をまくって着崩したシャツ姿だ。彼は私と目が合うと大きく息をついた。


「ああ、よかった」


 小走りで私に向かってくる。何がどうなってこうなって、何をどうしたらいいのかわからなくなった私は、混乱の断片をそのまま口にした。


「な、んで、鴻君がここにいるの?」


 そしてここはどこで、今は何時で、ここから工場へ行く道は、と押し寄せる言葉が喉に詰まる。しかし私の問いに対する彼の答えに、全ての言葉が吹き飛んでいった。


「ここ、俺の家だから」

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