2. 魔法のエンジン

 かび臭く薄暗いホームで列車の到着を待つ。

 隣にいる二十歳過ぎくらいの男性が、先程からずっと私を見ている。見慣れない顔だ。目が合うと、彼は長い前髪の隙間から粘ついた笑みをみせた。

 真空チューブ地下鉄道チューブを利用していると、よくこんな視線に出くわす。まあ、仕方がない。普通、女学生が地下鉄道を利用することなんてないのだから、目立つのだろう。

 機関車のように蒸気の力で動くのではなく、レールの間に敷かれた真空チューブの大気圧で動く地下鉄道列車は、速くて運賃も安い。だから多少ホームや車内が汚くても、客層が悪くても、利用せざるを得ない。


 しばらくすると、地響きのような音と共に、暗闇から列車の黒光りする姿が浮かび上がってきた。

 強烈な風が全身を覆う。今日はちゃんと来てよかった。昨日は真空チューブを覆う革がネズミに齧られたせいで、かなり遅れが出たのだ。


「ねえ君、中学生でしょ。何歳? 十三くらいかなあ」


 洗濯糊みたいにねちゃねちゃした声が鼓膜を震わせる。隣の男性が私の耳元で囁くように話しかけてきた。

 うっかり「小柄の童顔で悪かったな、十七歳だよ」と言いそうになって、飲み込む。曖昧に微笑んで流すと、彼はふんと鼻を鳴らした。

 列車が停まったので、構わず扉を開けて乗り込む。座席に座ると、がらがらに空いているというのに隣に座ってきた。


「中学かよってるなんてさあ、家が金持ちなんだねえ。君のお父さんは俺らから搾り取るだけ搾り取って、自分だけ甘い汁を啜ってるんだねえ。だから君は贅沢ができるんだよお」


 ベルが鳴り、列車が走り出す。天井にぶら下がった裸電球の不安定な光が、男性の青白い顔の陰影を揺らめかせる。


「実はね、今君がいるのは、お父さんが俺らから搾取した金で作った、狭い狭あい籠の中なんだ。だからさ、ねえ、今の世界とは違う、もっと広い世界を見たいと思わないかい。お兄さんがさあ、連れて行ってあげるよお。もっと楽しくて刺激がいっぱいで」

「や、そういうのは結構です」


 面倒くさい奴に捕まってしまった。本当はがつんと撃退してやりたいのだが、あいにく今は制服を着ている。学校の看板を纏っている以上、下手なことは言えない。


 洗濯糊が耳に詰まったような不快な時間を過ごしているうちに、降りる駅に到着した。男性はまだ何かねちゃねちゃ喋っていたが、曖昧に微笑んで席を立つ。


「では、私は今から仕事がありますので」


 スカートの裾から履き古した作業靴を覗かせ、列車の扉を開けた。


 大気を巻き上げ、列車が走り去っていく。

 両耳を押さえる。ねちゃねちゃと張り付く洗濯糊を押し出すように。

 心の中に小さな穴が開く。

 

 さっき、鴻君から貰った声の記憶が洗濯糊に絡めとられてしまったみたいで、なぜだか少し悲しくなる。




 駅の階段を上るにつれて煤煙ばいえんの臭いが強くなる。外に出て見上げると、密集した工場から突き出した無数の煙突が、空に向かって一斉に煙を吐き出していた。

 病気の父に代わって工場で働きだしてから、まる二年になる。初めのうちはこの街を覆う煙のせいで目と喉が痛くて大変だったが、さすがに慣れた。


 職場である工場の汽罐室ボイラールームに向かう。古びた扉の前で、一つ大きく息を吸う。

 気持ちを切り替える。

 扉を開けると同時に押し寄せる熱気と騒音に負けじと、声を張り上げる。


「ご安全にいっ!」


 大声で挨拶をすると、騒音のなかから威勢のいい「ご安全に」の挨拶が幾つも返ってきた。汽罐長きかんちょうが禿げ上がった頭を手拭いでつるつると拭きながら、満面の笑みを向ける。


「ご安全に。そういや瑠奈ぼう、今日は試験の結果が出たんだろ。どうだい、鴻のボンボンに勝ったか」

「負けちゃいましたよう。二点差でした」

「はー、凄えな瑠奈坊は。そんなん、目に入ったゴミくれえの差じゃねえか。こりゃ『魔法のエンジン』の実現化も夢じゃねえな」

「あはは、ありがとうございますっ。じゃ、急いで着替えてきますね」


 「魔法のエンジン」の一言で、力がみなぎってくる。

 そうだ。私には夢がある。「高等中学首席卒業」の肩書を武器に大きな工場で雇ってもらい、そこで私が考えた「魔法のエンジン」を完成させる、という夢が。

 今はまだ大まかな構想しかないけれど、このエンジンはきっと社会の役に立つ。うまくいけば、石炭の産出量が少ない幾望国を救う一助になるかもしれない。それに。


「お父ちゃん、待っていて……」


 病弱な体に鞭打ちながら私を育ててくれた父に、楽な暮らしをしてもらえるだろう。


 作業着に着替え、三つ編みを帽子の中へ押し込み、ゴーグルを嵌め、手拭いで口元を覆う。

 日勤のおっちゃんと拳を突き合わせて交代の挨拶をする。これから十時間、夜食の饅頭を食べる時以外は汽罐室に籠りきりだ。


 焚口たきぐちを覗くと、炎の轟きがお腹に響き、熱と光が顔面を襲った。

 汽罐室の端まで一輪車を走らせる。赤いペンキで「石炭」と書かれた壁から突き出した、太い鉄パイプの下に一輪車を置く。傍らのレバーを力任せに押し下げると、パイプの先からがらがらと石炭が吐き出されてきた。

 両手に力を込め、石炭が山積みになった一輪車の持ち手を握る。


「……れ、……れ……」


 走りながら、いつもの呟きが唇から零れる。

 腰を入れ、石炭にスコップを突き刺す。石炭が均等に広がるよう注意しながら焚口に放り込む。

 炎の声が変わる。耳を澄ませ、もう一度石炭を放り込む。

 手拭いの下で汗と共に呟きが流れ落ちる。


「頑張れ、頑張れ、頑張れ……」

 



 私には夢がある。

 高等中学を首席で卒業し、大きな工場で「魔法のエンジン」を完成させること。

 人々の生活を変えること。

 父の病気を治し、楽な暮らしをしてもらうこと。

 それが全て。そのためにはなんだってする。それ以外には何も望まない。


 何も、望まないんだから。

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