【六月】素直になれないストロベリームーン
1. 煤かぶりの姫
伝声管から響く聞き取れない音楽が、午後の授業終了を告げる。生徒たちは先生への挨拶を済ませるや否や、一斉に教室から飛び出した。
教室の狭い出入口から人が飛び出すさまは、ひびの入ったパイプから吹き出す蒸気のようだ。
私もその蒸気の一粒。がさがさと制服のスカートを揺らしながら、男子生徒たちに行く手を阻まれながらエントランスへと向かった。
エントランスの壁一面に、六月の月例試験の順位が貼り出されている。急いで来たつもりなのだが、既に人が溢れかえっていた。
ここ『
順位表が貼られる場所は、学年やクラスによって違う。私は向かって左側の入り口付近にある、「混合予科クラス二年」と書かれた表を見上げた。
「
その上に、「
唇を嚙む。
総合二位。二点差。
また負けた。
混合予科クラス三十人中、二位ということは、学年二位ということだ。特待生基準は満たしているので、学校は続けられる。だが、「首位」でなければ意味がないのだ。
悔しい、という思いと同時に、どうしようもない無力感に襲われる。
あの時、もっと勉強していれば、もっと寝る時間を削れれば、一位になれたかもしれないのに、出来なかった。努力が足りなかったことも含めて、これが私の実力だ。
軽く頭を振る。こんなに人が多い場所で、感情を顔に出すわけにはいかない。なるべく目立たないよう、誰にも見つからないよう、表情を殺して静かに教室へ戻った。
窓際の一番後ろにある自分の席で帰り支度をする。なるべく人と顔を合わせないように俯きながら。
赤茶色をした自らのお下げ髪が、ぶらぶらと視界の邪魔をする。
このまま誰にも絡まれませんように、と心の中で祈っていたのだが、どうやら祈りは届かなかったらしい。私の背後で男子生徒たち数人がわざとらしい会話を始めた。
それはたわいない雑談の形を取っており、教室のざわめきに紛れている。けれども時折、ぎりぎり私に聞こえるくらいの小声が混ざる。
「大学へ行かないくせに予科クラスにいる奴とか、邪魔でしかないんだけど」
反射的に振り返る。男子の一人が私を見て片頬を僅かに釣り上げた。だがそれは一瞬で、何事もなかったかのように雑談を続ける。
聞く気はないのに、聞きたくないのに、耳は彼らの小声だけを拾って心の中に落とし続ける。
「役立たずの庶民に特待で居座られると、学校の品位が下がるよな」
「本当だよ。辞めればいいのに」
「
「そのうえ美人でもねえって、もう存在する意味あるのかな」
こんな感じで色々言われるのは、今に始まったことではない。試験の結果が出た後は、いつもこうだ。今日は特にひどい。
無言で帰り支度を進める。言い返したって不利になるのは私の方だ。話し声は目の前にいる私にしか聞こえない。だから下手に騒ぎ立てても、「言い掛かりだ」と被害者
耐えろ。やり過ごせ。気にするな。
問題を起こしちゃいけない。私には、夢があるんだから……。
「高梨さん」
今まで捉え続けた声とは別の声が、かなり前方から飛んできた。
顔を上げる。声の主は、
つかつかと私の席に向かってくる。
彼の姿は、離れていても目を引く。
それなのに、どうしてなのかはわからないが、彼の纏う空気はいつもひりひりと冷たく肌を刺す。
彼は私の前に立つと、背後の男子たちに少し目を向けた後、私に向かって口を開いた。
「先月よりも点差を詰められたね。もし俺が一問でもケアレスミスしていたら、順位が逆だったかもしれない。まあ俺は、そんなミスしないけど」
腰に手を当て、挑むような目つきで煽られる。私は背筋を伸ばし、負けじとその目を見返した。
「そんなの人間だから分かんないじゃない。次こそは負けないからね」
さあなんて言い返してくるか、と身構えていると、彼は腰から手を離し、ふっと笑顔を見せた。
「いや、今回の負けは俺だよ」
切れ長の涼やかな目が柔らかく細められる。
「高梨さんは働きながら勉強しているんだろ。勉強に掛けられる時間を考えたら、俺の負けだ。高梨さんはいつも本当に凄いと思う」
邪気の欠片もない瞳でそんなことを言われると、返事のしようがない。口を開いたまま出てこない言葉をひねり出そうとしていると、あの男子たちはもごもご言いながらどこかへ消えてしまった。
「あ、え、うん。どうも。えっと、じゃ、ご、ごきげんよう」
頭を下げ、教科書が入った鞄と作業服が入った
鴻君はまだ何かを話したそうにしていたけれども。
校舎を出てから、ため込んでいた息を思いきり吐いた。
ペティコートを蹴とばすようにして早足で歩く。頭の中に、耳の奥に、鴻君の笑顔と声が張りついて離れない。
自動車が私を追い越す。その煙突から吐き出される蒸気に紛れ込ませるように、もう一度息を吐いた。
きっと私は今、悔しがっているのだ。
一位の人に慰められて、悔しいのだ。
だからこんなに鼓動が早くなるし、頬が火照るし、笑顔を繰り返し思い浮かべてしまうのだ。
そのまま勢いに任せて歩き続け、錬鉄製の優雅な装飾が施された校門をくぐった後、ふと足が止まった。
今まで、煽られることはあってもあんな言葉を掛けてもらったことはない。
考えてみると、凄くありがたいタイミングだった。あのおかげで男子たちの嫌な言葉が止まったようなものだから。
勿論、その辺は偶然なのだろうが。
だって、鴻君が私を助ける理由なんてないし。
そもそも私の席と鴻君の席は離れているから、鴻君の耳がどんなに良くても会話が聞こえるわけがないし。
首を振り、頭陀袋を抱え直し、再び歩く。
通りの向こうに、地下鉄道駅の金色の煙突が見えてくる。
これから
これから私は、女学生ではなく
あらゆる想いを胸の奥に深く深く押し込め、金色の煙突目指して歩く。
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