ウルフムーンだけが知っている

玖珂李奈

【八月】秘密の抱擁

0. 秘密の抱擁

 校舎の裏手にある倉庫の中で身を屈め、彼の体を強く抱きしめた。

 腕が焼けるように熱い。彼の体は人間ならありえないような高熱を発し、小刻みに震えている。

 彼は『人狼族』だ。だが変身能力が不安定なため、満月の前後になると意図せず狼に変身してしまうことがある。

 それを抑えることが出来るのは、私の抱擁だけだ。


 首筋に汗が伝う。狭く窓の閉まった室内は蒸し暑い。首をねじって窓から外を覗くと、八月の太陽が嫌がらせのようにぎらぎらと揺れていた。 


 一年生の下校時間が近いからだろう。目の前にある駐車場に、馬車や自動車が続々と集まってきている。

 自動車の煙突から吐き出される蒸気が陽炎に溶け、磨きこまれた車体が日光を反射する。お仕着せ姿の運転手たちは無帽の状態で直立し、各家の「お坊ちゃま」や「お嬢様」が来るのを待っていた。


 腕の中の彼が低いうめき声を上げた。

 視線を移す。強く抱きしめているはずなのに、変身が始まってしまった。

 上流育ちらしい細く長い指はみるみるうちに縮こまり、手の甲には銀色の毛がびっしりと浮かびあがっている。顔はまだ人間のままだが、食いしばった歯の隙間から、めりめりという嫌な音が聞こえた。


 まずい。もっと強く抱きしめないと、狼に変身してしまう。

 もし、外にいる運転手が何かの拍子に倉庫の中を覗いたら。

 そして彼が「伝説の怪物」だと知られてしまったら。


瑠奈るな


 牙が生える軋み音の隙間から、私を呼ぶ微かな声が漏れる。彼は額に汗を浮かべ、夜空のような色の瞳を私に向けた。


「ごめん……。もう、いい。熱いだろ」

「なあに言ってんのよ、朔夜さくや


 私の腕から逃れようとする彼――朔夜に向かって笑みを作り、なるべく明るい声を上げた。

 

「このくらいの熱、どうってことないって。私は罐焚かまたき婦だよ。ボイラーに石炭を放り込むのが仕事なんだから、こんなん、熱いうちに入らないし。ほらおいで。労働で鍛えた腕で抱きしめるから、肋骨折れないように気をつけなよ」


 その言葉に、彼は目を伏せ、躊躇いがちに体を預けてきた。これ以上彼が気を遣わないよう、「あ、よいしょっと」などと呟きながら腕を回す。

 確かに私は学生と罐焚き婦の二足の草鞋を履いているから、熱には慣れている。だがこの熱が「どうってことない」わけがない。

 私が熱いのは我慢できる。でも、朔夜が苦しむのは耐えられない。

 抱きしめる腕に力を込める。朔夜の熱も、苦しみも、全てを受け止め浄化するように、強く。


 天井に取り付けられた伝声管から、正午を告げる音楽が流れてきた。

 長い金属管を通るうちに、原曲がわからなくなるほど割れてしまったその音が、朔夜の低い呻き声をかき消す。




 どれほどの時が過ぎただろう。やがて朔夜の体の震えが治まり、熱がゆっくりと引いていくのがわかった。

 もとの形を取り戻した手が、力なく垂れ下がっている。変身で消耗したせいか、浅い眠りへと入ったようだった。


 艶のある砲金色ガンメタリックグレーの髪が額に張り付いている。緩やかなカーヴを描いた長い睫毛の上に、汗が一粒零れ落ちた。

 ハンカチを取り出し、彼の額に浮かんだ汗を拭う。軽く押さえるように、そっと。

 いつも自分がするように、ごしごしとなんて拭けない。だって彼の肌はあまりにも滑らかできめ細かくて、ハンカチを持つ自分の手とは全然違うから。


 いや、いいのだ。恥ずかしくなんかない。赤く腫れた肉刺マメと火傷だらけの私の手は、働き者の手だ。工場のおっちゃん達も、みんな褒めてくれる。

 だから、同級生の女子達みたいな、白くて柔らかい手になりたいなんて思っていない。

 思ってなんかいないんだから。


「朔夜あ。起きなよう。午後の授業始まっちゃうよお。あ、このまま寝とく? んで、私に学年一位の座を譲り渡しちゃう?」


 その言葉に、彼がゆっくりと目を開いた。けれどもまだ表情が沼底のように濁っている。だから顔を近づけ、片頬を吊り上げて笑い、煽ってみた。

 目が合う。すると夜空色の瞳が挑むような輝きを放ちはじめた。


「いや。午後は瑠奈の苦手な歴史だよね。だから出席して二位との差を更に広げる」

「そうはさせるか。次こそは負けないからね」


 勢いよく立ち上がり、深緑色の制服のスカートをばさばさと広げる。

 硬い生地でできたくるぶし丈のペティコートや、鯨髭が何本も入った頑丈なコルセットがないと着られない制服は、動きにくいことこの上ない。この学校に通う「社交界のはな予備軍」たちは、普段もこういう服を着ているのだろうが、あいにく私は庶民だ。長時間屈んでいたせいで痺れた脚を大きく前に踏み出した時、スカートの裾を思いきり踏んづけてつんのめった。


 顔面が勢いよく床に迫る。

 目をつぶる。

 だが私の体は倒れることなく、ふわりとあたたかさに包まれた。


 朔夜が、後ろから抱きかかえるように支えてくれた。


「危ない」


 ただそれだけの言葉が、私の首筋を撫でる。言葉の振動が首筋を通って心臓を強く掴む。

 私を支える腕の感触が、鯨髭や紐で縛り上げた体に伝わる。


「ありがと。ごめんねえ。さ、行こっか」


 自然な態度が取れていると信じつつ、教室へ向かう。

 火照った頬の色を悟られないように、彼の前を歩く。




 あの日の出来事を思い出す。

 あの日、あんな目に遭わずに、彼が人狼であるということを知らなければ。

 私たちはきっと、ただの「級友でライバル」という間柄のままだったろう。

 そしてその関係は、きっと卒業まで続いたはずだ。

 

 彼への想いを、胸の奥深くに秘めたまま。

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