4. 救いの手
「鴻君、
思いもよらない言葉につい動きが止まる。
言われて室内を見回す。私の家がまるまる二つは入りそうなここは、さっきまで寝ていた巨大なベッドや複雑な模様が彫られた箪笥などがあるだけだ。生活感がまるでない。
いや、それよりも。
「えっ、とごめん。私、途中から記憶がないんだけど、多分下校中に倒れちゃったと思うんだ。もしかしてその時に助けてくれた、のかな」
「うん。学校でもずっと具合が悪そうだっただろ。で、授業が終わった後声を掛けたんだけど帰ってしまって」
そこで彼は言葉を切り、手を顔の前で大きく振りながら口調を強めた。
「や、べ、別にずっと見ていたわけじゃなくて。たまたま、たまたま目についた時にそうだっただけで」
それはそうだろう。鴻君が私なんかのことをずっと見ていたりするわけがない。彼は早口気味に言葉を続けた。
「で、下校中、地下鉄道駅の近くを通った時、倒れたところを見かけたから、うちに連れてきたんだ。ここなら専属医師がいるし、俺も病院に付き添う時間がなかったから」
付き添う時間がなかった、ということは、忙しい中わざわざ助けてくれた、ということか。
どうやら私は彼に随分と迷惑を掛けてしまっていたらしい。感謝の気持ちと申し訳ない気持ち、そして恥ずかしい気持ちが体の中を一気に巡る。
「本当に本当にごめんなさい、迷惑を掛けてしまって。そしてありがとう。あの、どうしよう。私、今ちょっと、どうしたらいいのかわからないんだけど、後できちんとお礼します」
「いや、迷惑を掛けられたこともないし、お礼されることは何もしていないって」
そうは言っても「ありがとう」では済ませられない。だが今は、他にも問題がある。
「そうもいかないから、あとで必ず。えっと、でね、あと、教えて欲しいんだけど、ここから一番近い地下鉄道駅ってどこかな。遅刻しちゃったから急いで仕事へ行かないといけなくて」
窓の外を見る。夜空に浮かぶ月の光が怖い。光が私を突き刺しながら、無断で遅刻するような使えない奴は
「仕事って、今から働く気? さっき医師から話があっただろ、過労と睡眠不足だって。今日は休まなきゃ」
「そんなこと言っていられないの。今既に無断遅刻しているから危ないの。もし一日でも無断欠勤したら、仕事を他の人に取られちゃうの」
「いやでも」
「駄目なの! 私が馘首になったら、お父ちゃんの帰る場所がなくなっちゃう!」
鴻君に向かって声を荒らげるのは間違っている。父の病気や罐焚きの現状を知らない彼からしたら、何を言われているのか訳がわからないだろう。それはわかっている。けれども細かな説明をする心の余裕はなく、煤のような絶望がざわざわと膨らんでいく。勢いで部屋の外に出ようとする私の両腕を、彼が強く掴んで押さえた。
心の隅に僅かに残っていた冷静な自分が、随分と熱い手だな、と思う。
「待って。お父様のことはわからないけど、無断欠勤じゃなければ大丈夫なんだな」
「多分。でももうこんな時間」
「落ち着いて。大丈夫だから。高梨さんの勤めている工場って、どこ。電話番号は」
焦る私と対照的な、静かな声で訊いてくる。
「と、十和田金物製造。電話は、多分、ない」
「じゃあ、母屋に郵便所直通の
そう言いながら背を向け、早足で部屋を出る。私は言われるがままに小走りで後を追った。
この家は二階建てらしく、二階には今いた部屋ともう一つの部屋があって、廊下で繋がっている。吹き抜けから見えるエントランスは磨きこまれた大理石製の床だ。
促されるまま隣の部屋に入る。ここは書斎と呼ばれる部屋のようで、本棚には革で
だが机に置かれた本はどれも質素で、その上使い込まれてしなしなだ。
これと同じ本を私も持っている。中学の教科書だ。
「工場長の名前は」
「え?」
「手紙は俺名義で書く。さっき医師に診断書を書いてもらったから、それも同封しよう。そうすれば本人が手紙を書くより、大変な事態っぽいだろ」
ペンをくるりと回し、いたずらっぽく片目を閉じてみせる。
それを見て、心臓がアルコールをかけられたように熱くなる。
それにしても、わざわざ診断書まで書いてもらっていたなんて。申し訳なさ過ぎてもじもじしていると、彼は手紙を手際よく丸めて気送管速達用の銅筒に収めた。
部屋の入り口にある伝声管に向かって声を上げる。
「朔夜だ。
話しながら伝声管の横に設置された管の中に手紙を押し込む。蓋をしてレバーを引くと、ドンという低い音が響き、手紙がどこかへ送られていった。
「さ、これで高梨さんは一晩、休みたい放題だよ」
ふわり、と微笑む。
もう、嫌だ。彼が表情を変えるたびに心臓が熱い。
「で、これから、だけど」
私が心臓の熱に狼狽えている間に、また彼の表情が変わった。
俯き加減で、こちらを見たり視線を外したりを繰り返しはじめる。
「もし体調が許せばその、うちで軽く夕食を、えっと食べていけば。ほら、えっとほら医師も食事の偏りが良くないって言っていただろ。だからその、い、一緒に」
「そんな、それはいくらなんでも申し訳ないよ。せっかくの家族団らんの場に私がお邪魔するなんて。気持ちだけありがたく受け取らせてもらうね」
鴻家の食卓を想像する。きっと学生食堂より長いテーブルの上に、なんだか凄い料理が出されて、それを天下の「鴻グループ」総帥のお父様と、絶対綺麗で上品なお母様の前で食べるんだ。
もう、盛大な粗相をやらかして鴻君に恥をかかせてしまう未来しか見えない。
「ああ、その気遣いはいらないから」
頭を下げる私に向かって、抑揚のない声が投げかけられた。
顔を上げる。
あの、いつも学校で纏っている、ひりひりと冷たく肌を刺す空気が漂う。
「俺は家族と食卓を囲まない。この離れで一人で食べているんだ」
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