12. 綿あめのような

 謝罪の言葉と共に、彼の手をさらに強く握る。

 また彼に助けられてしまった。感謝と申し訳なさを、どう伝えたらいいのかわからない。


「瑠奈」


 躊躇いがちに声を掛けられる。もぞもぞと手を動かされたので、そっと離した。


「俺のこと、怖いんだろ。それに、こんなに近くにいて気持ち悪くないのか。それなら、別に」


 全てを言い切らず、再び唇を噛む。


「気持ち悪い?」


 一瞬、何を言っているのかわからなかった。

 彼の言わんとしていることをしばらく考え、少し強めの声を出す。


「私、『人間が狼に変身する様子』と『伝説の怪物としての逸話』は怖かったけれど、『朔夜』は怖くないよ」


 夜空色の瞳が不思議なものを見つけたように私を見る。


「正直、『人狼族』というものについて、心の中で冷静に受け止めることができるようになるには、もうちょっとかかると思う。でも、それはそれ。朔夜は優しいもん。怖いわけも、気持ち悪いわけもないじゃない」


 ばんばん、と肩を叩いてみる。職場のおっちゃんに接する時と同じノリで叩いてみたが、朔夜には相当痛かったみたいだ。

 しまった。体が弱っている人になにやっているんだ私。


「朔夜。あらためて、ありがとう。そしてごめんなさい」


 頭を下げる私を見て、朔夜は細い笑みを見せた。


「そんなこと言わないで。瑠奈が無事でよかった。それに今の時間に来てくれたってことは、早退したんだろ。こちらこそわざわざありがとう」


 その表情と声に、心臓が喉まで飛び跳ねる。彼と一緒にいると、いつか私の心臓は、空の果てまで飛んで行ってしまうかもしれない。


「ああ、それはいいのいいの」


 心臓を所定の位置に押し込みながら、走って鞄を取ってくる。


「それよりこれ。幾望国語と算術の帳面どうぞ。やっぱり万全な状態の朔夜ライバルを叩きのめすことに意味があると思うんだよねっ」


 美しく整えられた室内で見る帳面は、やはり見事なまでに汚い。

 朔夜は帳面を丁寧に両手で持ち、私のことをじっと見つめた。ノートを借りたことについて気を遣われたら困ると思い、にっこりと微笑んでみる。

 彼は私を見つめたまま、口からぽろりと呟きを落とした。


「すき……」


 次の瞬間、呟きを飲み込むように口を押さえ、視線をものすごい勢いで泳がせ始めた。


「って、って、ええと、ええと、お、俺を負かなのかって、い、言ったっ。次の月例試験では、帳面を貸したことを後悔するからなっ」


 びしいっ、と指をさしてくる。私も負けじと指をさし返した。


「ふっ。算術は常に満点なんだから、帳面を貸しても負けようがないもんねっ」


 互いにわざとらしく睨み合う。やがてその様子がおかしくなって、どちらからともなく笑い出した。


 ああ、びっくりした。ただの煽り文句だったのに、「好き」って聞こえてしまった。


 それからひとしきり「ありがとう、ごめんなさい」を伝え合った後、今日学校であったことなどを話題にしてお喋りをした。

 内容は他愛ないものなのだが、お喋りの間中、ずっと心の中がふんわりとしていた。


 幼い頃、父に綿あめを買ってもらったことがある。真っ白でふわふわで、口に入れるとすうっと消えて、優しい甘みがじんわりと広がった。

 今の私の心の中には、あの時の綿あめがいっぱいに詰まっている。




「あ、そういえば」


 お喋りの流れの中で、彼の「無断で教室から抜ける」問題を思い出した。今ならその話題を出しても大丈夫かな、と思い、訊こうとした時、彼の表情から柔らかさが波を引くように消えていった。

 こわばった表情でドアの方を見ている。


 この表情、以前見たことがある。

 そうだ、弟の望夢のぞむ君が話しかけて来た時だ。

 ドアの向こうから、麻田さんと知らない男性の声が聞こえてくる。


「旦那様……」

「全く、情けない。それでその女はここにいるのか」


 乱暴にドアが開けられる。それと同時に朔夜の体がびくりと震えた。 

 背の高い男性が早足で朔夜のもとへ歩いて来る。その後ろを麻田さんが追っていた。


 男性は白髪交じりの黒髪を綺麗に撫でつけ、神経質そうな顔に苛立ちを滲ませている。彼は私を素通りして朔夜の前に立ち、見下ろすようにして腕を組んだ。


「朔夜。白昼堂々、人間の目の前で変身してみせたそうだな。どうせ母親と同じ『汚れた血』の、みっともない変身だったんだろう」


 吐き捨てるような、という言葉は、こういう口調に使うのだろう。男性は私の方に視線を動かすと、鼻を少し動かした。


「君が朔夜の変身を見た人かね」


 いやちょっと待て、挨拶はないのか、そもそもあなたは誰だ、とも思ったが、とりあえずカーテシーをしておく。話の雰囲気から、おそらく朔夜の父親だろう。


「さようでございます。お初にお目にかかります。鴻さんの級友の高梨と申します。このたびは鴻さんに助けていただ」

「君は労働者だね、匂いからして」


 今、話の途中なんだけど、と言いたくなるのをこらえる。

 「匂い」というのは、人狼の嗅覚で感じ取った何か、という意味なのだろうが、普通に考えて失礼だ。もやもやしたものが胸に溜まるが、おろおろしている麻田さんのために飲み込む。


 男性は懐に手を入れ、むき出しの札を何枚か取り出した。それをいきなり私に握らせる。


「愚息の変身や人狼族のことは、これで黙っていてくれ。いいな」


 くしゃくしゃになった札が、手の中に押し込まれる。

 その感触を覚えた時、せっかく我慢していた何かがぷつりと切れた。


「鴻様が仰いますように、私は労働者でございます」


 札の皺を伸ばし、両手で男性の前に突き出す。

 彼の瞳をまっすぐ見据える。


「労働者は、自らの労働の対価としてお金をいただいております。『人が内緒にしたいと思っていることを言わない』という、人として当然のことをしてお金を貰うような真似はいたしません」

 

 言い終わった直後に「やってしまった」と額に汗がにじむ。男性は私を睨むと、お金を掴んで背を向け、無言で部屋を出て行った。

 麻田さんが男性の後を追いながら、私に向かって何度も頭を下げている。私も何度も頭を下げる。一応言っておいた「ごきげんよう」の挨拶が、乱暴に閉められたドアにぶつかって行き場を失っていた。

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