13. 汚れた血

 ドアの閉まる音の後に、居心地の悪い沈黙が流れる。とにかくこの沈黙をどうにかせねばと口を開けた時に、朔夜の声がぽつりと響いた。


「ごめん、瑠奈。父が失礼な態度を取って」


 頭を下げる。私は空気を断ち切るように腕を大きく横に振った。


「いやいや私こそだよ。お父様に偉そうなこと言っちゃってごめんなさい。でもさ、むむう、って思っちゃったんだ」


 「むむう」でごまかしたが、朔夜のお父様とのやりとりの後で心に残ったのは、怒りではなかった。

 不安だ。

 初対面の人に、労働者に、ああいう態度を取る人が頂点なんて、鴻グループ、大丈夫なんだろうか。




「ねえ、望夢君に会ったときにもちょっと思ったんだけど」


 訊くべきではないのかもしれないが、前から引っ掛かっていたことを訊いてみる。


「『汚れた血』って、なんなの。実の息子に向かって、なんか嫌な感じ」


 感覚的に、凄く不快な言葉だ。そんな呼び方をしてまで、一時的にとはいえ朔夜を跡継ぎ候補にした意味も分からない。


「ああ、あれ」


 特に感情のこもらない口調でそう言うと、くるりと手首を返して腕の内側を見せた。

 白い手首から透ける蒼い血管を指さす。


「人狼族の変身って、普通は簡単にパッパッとできるものなんだ。だけど稀に、変身能力が著しく不安定で劣る人がいて、そういう体質や人を『汚れた血』って呼んでいる。俺は母からこの体質を受け継いだらしいんだ。まあ、そういうのもあって、この家でこういう扱いを受けている」

「え、それって、どう頑張ってもスキップができない人と同じ感じ?」

「いや、それはちょっと違う、かな」

「ふうん。人間からしたら同じだけどねえ。スキップが上手なほうが格好いいけど、できなくても問題ないし、嫌な呼び名をつけられる理由もない。私もスキップはあんまり上手じゃないけど、人生で損したことないよ。ほら」


 「汚れた血」とスキップの問題が全然違うのはわかっている。けれども人間からしたら、変身能力の優劣で差別するなんて意味がないと思う。

 そんなことで、朔夜が一生嫌な思いをする必要なんてない。だからわざとしょうもない喩えを出した。ついでにベッドの周りでスキップを披露してみる。


 朔夜に笑顔が戻るかな、と、彼の顔を見てみたが、予想に反して彼は呆気にとられたような表情をして固まっていた。


「瑠奈、あの、もしかしてなんだけど」


 言葉をつっかえながら私を指さす。


「昨日、うちの自動車を降りた後にやっていたのって、スキップだったの?」

「ん? ああ、そういえばスキップしていたね」

「そうだったん、だ」


 あの時、朔夜と話ができて、名前を呼んでもらえたのが嬉しくて、スキップしながら工場へ向かっていた。それを朔夜に見られていたと思うと恥ずかしい。

 彼が再び口を開く。


「俺、てっきり瑠奈が脚を引きずっているのかと思って、工場にちゃんと着けるか心配だったから、聴覚と嗅覚を『開いて』見守っていたんだけど、そうか、スキップ……」


 額を押さえて話す彼の言葉を聞いて、昨日の疑問が解けた。


 そうか。あの時、どうしてタイミングよく朔夜が助けに来てくれたのか。

 男たちの話していた内容や、私の居場所がわかったのか。

 あれは、彼が人狼としての聴覚と嗅覚を「開いて」――話の感じからすると、本来の能力を開放して、という意味なのだろう――私を見守っていてくれたからなんだ。

 私が脚を引きずっていたから。


「ほ、ほうら朔夜、スキップできなかったら、助けてもらえちゃった」


 感謝の気持ちは勿論変わらないが、なんともいえない脱力感を覚える。

 彼はそこでようやく、ふんわりと笑みを浮かべた。


「朔夜、あらためて、ありがとう」


 ベッドのわきで跪き、彼を見上げる。


「変身、大変だったでしょう。自分の体質をわかっていたのに、学校を休むような思いをしてまで助けてくれて、本当に」

「だから、いいって」


 彼は片手を上げ、少し躊躇うように止めた後、私の方へ伸ばしてきた。

 大きな手が私の頭の上に、ぽん、と置かれる。


「瑠奈が無事で、こうしてそばにいてくれるだけで、俺は元気になれる」


 彼の言葉に、手の感触に、心臓がひっくり返ってきゅうっと鳴く。

 ひとしきり鳴いた後、早鐘のように鼓動が早まる。


 それはどういう意味だ。

 単に私が無事でよかったということか。威勢のいい私を見ていると元気が出るということか。それともスキップの喩えがウケたのか。

 それとも。


 朔夜を見つめる。彼は笑みを浮かべていたが、やがて頬が紅色に染まり、紅色はどんどん広がって耳まで到達し、それと同時に頭の上に乗っていた手が凄い勢いで引っ込められた。


「げ、元気になった勢いで、今日の授業の遅れをこの帳面で取り返さないとな。ライバルが無事でよかったよっ」


 汚い帳面を握りしめ、挑むような目つきで私を見る。


 ああ、そうか。ライバルが無事であれば、張りあいがあるものね。

 今の言葉になんとなく違和感があるが、まあ、言う通りなのだろう。

 そうだ。そういう意味なんだ。

 そうだよね。




 朔夜によると、「汚れた血」と呼ばれる人たちにとって、「変身するときに莫大な労力を使う」というのは、実はさほど問題ではないらしい。

 確かに、日常生活で変身する場面なんてまずないから、そうなのかもしれない。

 問題は、本人が意図していないのに変身してしまう時期がある、ということなのだそうだ。


 彼らは満月の前後数日、本人の意志とは関係なく狼に変身してしまうことがある。

 突然変身してしまうわけではなく、その前に人間ではありえないような高熱を全身から発する。だから発熱が始まったらすぐに、人目につかない場所に隠れる。


 変身してしまう時間はまちまちだが、一時間前後のことが多い。その間、体をストールで覆い、物陰で息を潜めている。

 意図して変身するときよりはましだが、変身のたびにそれなりに体力が削られる。

 そんな苦労が、大体二十歳を過ぎるまで続くのだそうだ。


「ええ……。それ、大変だよ。そういえば前から疑問だったんだ。朔夜、たまに授業を抜けたり無断で早退したりしていたでしょう。普段真面目なのにどうしてかなっていつも思っていたんだ。そういう事情があったんだね」

「え、『前から』? どうしてかなって、『いつも』?」

「うん。あ、いや、ライバルの動向は気になるからさっ」

「ああ、そっか」


 彼は空気の抜けるような相槌を打って、曖昧に微笑んだ。

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