【十二月】コールドムーンの対決

35. 本性

 一瞬、周囲のざわめきが遠くなったように思えた。


「乗っ取り? え、それはどういう」

「私も詳しいことはわからないの。瑠奈なら鴻さんから何か聞いているかと思ったのだけれど」

「ちょっと待って。そもそも『乗っ取り』って、なんなの」


 私の思いつく「乗っ取り」は一つだが、そんなことはありえない。だって、鴻グループだ。

 だが紅子の答えは、私の考えを肯定してしまった。


「鴻グループの総帥が変わって、鴻さんのお父様は追放されてしまったそうなの」 


 ぐらり、と足元が揺れる。

 手足から血が引いていく。


 鴻グループの良くない噂は聞いていた。門番やお父様の態度を見て、あれっと思うこともあった。だが、まさかこんな突然に。


 いや。

 私たち学生には突然に見えても、きっと長い時間をかけて、少しずつ根が崩れていたのだろう。

 そうして根を失ったがらんどうの大木は、何者かの手によって簡単に倒された。

 一体、誰が倒したのだ。


 そんなもの、考えるまでもない。

 いくら良くない噂があったとはいえ、相手は経済界の覇者だ。下手なことをすれば自分が潰される。そんなリスクを冒してまで手を出す人なんか、一人しかいない。


 鞄と頭陀袋を強く握る。感情が渦巻き、言葉を発せなくなった私に、紅子は黙って寄り添ってくれた。


「――っくよお」


 私の後ろで男子生徒が話しているのが聞こえた。

 他愛無い雑談に混ぜて、悪意を向けてくる。


「あいつ、最近鴻君に媚び売っていたもんな」

「あわよくば玉の輿、とか思っていたのかね」

「目論見外れていて笑えるんだけど」


 ああ、そういう風に見ていたんだ、と受け流していたら、紅子が険しい目を向けてくれた。

 途端に静かになる。紅子がそばにいるというのに、ついいつもの調子でやらかしてしまった、といったところか。

 彼らはしばらくもごもごと言っていたが、話題を変えて会話を再開した。


「でもさ、鴻君、どうするつもりなんだろう。あんなにガリガリ勉強していたのに、継ぐべき会社がまるごとなくなったんだからな」


 どうも朔夜が跡継ぎだと思っているらしい。心配している風ではあるが、「ガリガリ」の所に悪意を感じる。

 その言葉を受けて、別の男子が鼻で笑った。


「ああもう、おしまいだろうね。ほら、俺のパパ、鴻グループの社長だろ。パパが言っていたよ。総帥は無能だから、いずれこうなると思っていたって。だからその息子もさ、勉強以外は無能なんだよ。だって考えてもみなよ。彼、友達もいないし、愛想もないし、どう考えたって総帥の器じゃないよね」


 うんうん、という声が聞こえる。

 

 こめかみの血管が、ぶちりと音を立てる。

 紅子が男子たちの方を向いて何かを言おうとしていたので、手で制した。


「この……」


 鞄を置き、ゆっくりと振り返る。

 息を大きく吸う。


「パパのすねかじるしか能のない奴が、偉そうなこと語ってんじゃねえ!」


 渾身の力を振り絞って怒鳴りつける。

 頭が割れそうなほどに血液が沸騰する。全身が震える。紅子が制止していたが止まらない。

 私のことを言うだけならまだいい。だけど。


「あんたは人の器を四の五の言えるほど大層な奴なのかよ。今まであがたてまつっていた人が弱った途端に、ぐるっと掌返してねちねち陰口叩くような奴の器は、どんだけ立派なもんなんだよ。あんたに社会の何がわかる。朔夜の何がわかるってんだ!」


 私の剣幕に気圧されたのか、男子たちが顔をこわばらせて体を引く。朔夜を無能扱いした男子が、それでも口の端を歪めてわらった。


「こ、媚売りが無駄になったからって、何騒いでいるの。ああ怖い怖い。本当、お里が知れ」

「掌返しの知ったかぶりをするのが良いお里なら、そんな所こっちから願い下げだよ」


 将来のことを考えて、二年間ずっと被っていた「優等生」という名の化けの皮が、べろりと剥がれて消えていく。

 私は鞄と頭陀袋を抱えて教室を飛び出した。


「ちょ、ちょっと瑠奈、もうすぐ授業が始まるわよ」

「今日は休むっ。んじゃ、ごきげんようっ!」




 馬車から飛び降り、鴻家の正門をくぐる。

 今日は門番がいなかった。そのかわり、鳥打帽を被った新聞記者らしき人が周辺をうろついている。

 彼らは私に何かを話しかけたそうにしていたが、無視して離れ家に向かった。


 呼び鈴を鳴らすと、麻田さんが出てきた。

 丁寧に頭を下げて微笑んでくれたが、その顔は疲れをにじませており、すっかりやつれている。

 最近あまり会えなかったとはいえ、何か月も顔を合わせていなかった、というわけではない。そんな私から見ても、明らかに容貌が変わっていた。


「高梨様、お越しくださりありがとう存じます。あいにく主人は今、変身をしてしまいまして」


 その言葉で思い出す。

 そうだ、今日は満月だ。


 階段を駆け上がり、寝室のドアをどかどかとノックして中に駆け込む。

 ベッドのわきにうずくまっていた銀色の狼が、私を見てびくりと震えた。

 

『瑠奈、どうして、ここに』


 伝声管から響く音楽のように割れた声が、狼となった朔夜の口から発せられた。構わず駆け寄り、思いきり抱き締める。

 焼けるような熱が腕を焦がす。


「ああ、変身しちゃった。ごめんね気づかなくって。今からでもぎゅうってすれば、少しは楽になるかな。待ってね。ぎゅうって、ぎゅうってするから」


 力を込めて抱きしめる。完全に変身してしまった後に抱きしめても、楽になるのかはわからない。それでも彼に寄り添い、苦しみを受け止めたいのだ。


『瑠奈、学校は』

「いいのいいの、休んじゃった。だってなんか腹立ったし、朔夜のそばにいたかったし」

『腹が、立った?』


 腕の中で、彼の体が変化するのを感じる。背骨のあたりからぱきぱきという音がして、体毛が少しずつ薄くなってきた。


「うん。いつもの連中が腹の立つことを言っていたの。だからがつんと言い返したら、お里が知れるって言われちゃったよ。あーあ。どうせ本性がばれるんだったら、最初から気取ったりするんじゃなかった」


 人間に戻る時だって、つらいかもしれない。だから彼の気を紛らわせるよう、明るい口調で言ってみる。


「それって」


 人間の顔になり始めると、声も人間の時のものになる。


「伯父が、乗っ取りを、した話?」


 途切れ途切れの言葉を聞き、やはり、と思う。私は答えず、人間の姿を取り戻してきた彼を抱きしめ続けた。


 やがて、彼の姿が完全に戻った。夜空色の瞳がとろりと揺れ、目を閉じる。いつもの浅い眠りに入ったようだ。

 きっと彼は、変身以外のことでも色々消耗しているだろう。だからゆっくり寝かせてあげようと思い、ベッドの上に横たえるべく体を離した。

 それと同時に視線が寝顔からも離れていく。


 そして気がつく。

 考えてみれば、当たり前のことなのだ。今まで見たことがなかっただけで、当然のことだ。


 人間と狼の体は全く違う。だから狼になった時は服を着ていない。

 そして人間に戻ったからといって、自動的に服が体から湧いてくることはないのだ。

 つまり。

 だから。

 

「ぎぃやあああ!」


 自分の体のどこから出てきたのかわからない絶叫と共に、朔夜のことを放り投げた。

 彼に背を向け、両手でしっかりと目を塞ぐ。背後で鈍い音と「ぐおっ」という低い声が聞こえたような気がするが、それどころではない。


 心臓が飛び出して空の彼方まで駆け出していく。


 見ていない見ていない朔夜の顔しか見ていない。

 私はなんにも、見ていないんだから!

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