34. 私の覚悟

 遠くにあったざわめきが、少しずつ大きくなる。そろそろ早めに昼食を食べ終えた人が戻ってくる時間だ。

 朔夜は我に返ったように顔を上げた。


「ごめん、話が長くなって。そういうわけで伯父が嫌いなんだ。とはいっても、今は伯父が俺に何かしてくることはないから、気にしないで」


 そう言って、か細い笑みを浮かべる。


 気にするなと言われたって、そんなことできるはずがない。


 自分が幼かったころを思い出す。

 父からの愛情をたっぷり受けて、仲のいいご近所さんや友達に囲まれて、面白おかしく暮らしていた日々を。

 あの時は愛情も安全も、当たり前に存在するものだと思っていた。


 そして想像する。

 あの頃の幼い私が、ある日突然「怖い伯父さん」に連れ去られ、見知らぬ場所へ閉じ込められたら。

 それは、どんなにか……。


「瑠奈、どうしたの。大丈夫?」


 肩に大きな手の感触を覚え、自分が想像の世界に入り込んでいたことに気づいた。

 朔夜が私の肩に手を置き、心配そうに覗き込んでいる。私はなんとか口角をわずかに上げた。


「うん、大丈夫。朔夜、ごめんね。つらいことを訊いちゃって。話してくれてありがとう」


 私の言葉を受け、彼は目を伏せて首を横に振った。

 そして妙に明るい声を上げる。


「さ、せっかく大河内さんがおにぎりを持ってきてくださったんだから、食べよう。ほら、もう時間ないよ」


 彼の声に合わせて私も同じように対応しなければ、と笑顔を作り、顔を上げた。


 視線の先にあった時計を見る。

 血の気が引く。

 本当の本当に時間がなかった。


 まずは自分で持ってきた握り飯を飲み込み、続いて紅子にもらった小ぶりの握り飯を口に入れた。

 噛むと中から焼いた魚の旨味がぱんっと広がり、思わず「ほわっ」と声を出しそうになる。

 

 さすが、紅子のくれた握り飯だ。華やかで上品な見た目をしているだけではない。焦りながら食べても分かるくらい、ひとつひとつが個性をきらめかせている。

 ぽんぽんと手早く食べながら、楽しくて豊かな気分になれる。


 こういう握り飯みたいなものを出す屋台があればいいな。

 いつも夜食に屋台の饅頭を食べるが、たまには別のものも食べたい。

 紅子の恋人が独立したら、そんな屋台を作ってくれたらいいのに……。


 あっ。


 突然、本当に突然、頭の中に一つの考えが閃いた。

 それと同時に目の前がぱっと明るくなる。


 ああ、そうだ。呑気に人の商売をことを考えている場合じゃない。

 私ってば、なんでを思いつかなかったのだろう。




「瑠奈が食べる姿を見ていると、元気が出るよ」


 もうすぐ握り飯を食べ終わるという時、朔夜が微笑んだ。


「いつも凄くおいしそうに食べるから、こちらの気分まで明るくなる。こうやって一緒に食事をしてくれるだけで幸せを感じられる」


 そんな。

 幸せを感じられるのは、私だって同じだ。


 彼は耳に手を当て、廊下側を窺うようなそぶりをした。

 軽く頷き、片隅に添えられた紙包みを開ける。中にはデザートのKuih Bahuluクエ・バフルが一個入っていた。

 それをつまみ、私の方へ腕を伸ばす。


「瑠奈、あーん」


 言いながら廊下の方をまた窺う。

 私を見て、はにかむ。

 私も周囲を窺い、人が入ってこないか確認する。

 顔を近づけ、ぱくりと食べる。

 教室の中で、何か凄くいけないことをしているような気分になり、鼓動が早まる。


「朔夜、あーん」


 誰かが教室に入ってきたりしませんように、と祈りながら今度は私の分を朔夜の口元へ持っていく。

 彼が食べる。その直後に男子生徒たちが喋りながら教室に入ってきた。


 微笑みあう。

 頬が火照る。

 鼓動の音が「どきどき」から、計測不能な「どろどろ」に変わる。


 ああ、駄目だ。

 好き過ぎる。愛おしすぎる。絶対、絶対、守り抜く。


 そのためには、今のままではだめだ。

 もはや「首席卒業」は絶望的なので、勤め先を決めるにも制限がある。うっかり今朝の会社みたいなところに入ってしまったら、「魔法のエンジン」どころではない。


 そして朔夜は大学卒業後、鴻家を出る。望夢君が跡を継ぐのは当分先だろうから、それまでは鴻グループ以外の会社に勤めることになるだろう。

 そうなれば、いくら学士様でも、はじめから使用人のいるお屋敷暮らしは難しい。

 だから。


 私が起業すればいいんだ。

 



 私がひっそり起業を決意してから二か月が経った。

 

 汽罐室に轟くボイラーの音を突き破るように、サイレンが鳴り響く。私がいる一班の休憩時間だ。

 スコップを置き、外へ出る。

 五時間以上汽罐室にいたせいで汗まみれになった私の体に、十二月の夜風が容赦なく突き刺さる。

 むき出しのうなじが痛くなるほど寒いので、首をすくめ、肩を抱きながら屋台へ向かった。


「瑠奈坊。最近親父さんの具合はどうよ」


 饅頭の肉汁で歯茎の裏を火傷しかけていると、同じ一班のおっちゃんが声を掛けてきた。


「はい。やっぱり、全身麻酔をしての手術が必要みたいです。今のままでは体調が良くなってもすぐにぶり返すって。だから私、卒業して昼の仕事を始めても、当分はうちの工場でお世話になろうと思っているんですよ」


 先日、医師に「このまま回復することはない」と、はっきり言われた。だから私は、起業後も夜は罐焚きの仕事を続ける。

 働いて働いて働いて、私の愛する人たちを守る。


 おっちゃんは指先についた饅頭の皮をねぶり取ると、真顔になって声を落とした。


「瑠奈坊が頑張り屋なのは知ってるけどよ。なんというかさ」


 腕を組み、首をかしげる。


「一人で親父さんを背負って突っ走るだけが能じゃねえと思うんだよな。あんまし一人で突っ走ってると、見ているこっちまで息切れしてくら。だからよ、ちょっとは誰かと手を取り合って走ることも考えたほうがいいんじゃねえかな」




 翌朝、重い体を引きずって登校した。

 最近、学校と仕事に加えて起業の準備もしているので、寝る時間がほとんどない。来月には卒業なので、月例試験がないのがまだ救いだ。

 忙しくて、疲れていて、休日に朔夜と会うこともできない。


 教室に着いたのは、結構ぎりぎりの時間だった。

 教室に入った途端、異様な空気が漂っていることを感じ取る。もうすぐ始業なのに落ち着いて席に座っている人はほどんどおらず、皆ざわざわと何かを話し込んでいる。

 朔夜はまだ来ていないようだ。


「あ、瑠奈」


 女子グループの中から紅子が顔を出した。

 小走りで私の所へ来る。ただならぬ様子に気圧されていると、彼女は顔を近づけ、声を潜めた。


「昨日、父から噂を聞いたの。そうしたら他の子も何人か、同じことを聞いたんですって。ねえ本当なのかしら」


 勢いに飲まれてついていけない私をよそに話を続ける。


「鴻グループが乗っ取られた、って」

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