36. 大切な人
私が必死になって自らの記憶を操作していると、外からばたばたという音がして勢いよく扉が開かれた。
「高梨様! どうかなさいましたか!」
険しい表情をして駆け込んできた麻田さんが、仁王立ちになって私を見た。
私と目が合う。
麻田さんの視線が背後の朔夜に移る。
私に視線が戻ったかと思うと、再び険しい表情で朔夜を見る。
背後から朔夜の弱々しい声が聞こえた。
「麻田……。違う、違うんだ……」
「なんだかもう変に目が覚めた」という朔夜を寝かせ、私と麻田さんは食堂で話をすることにした。
淹れてもらったお茶を飲む。オレンジとシナモンの明るい香りが柔らかく立ち昇り、周囲の空気をほんのり暖めた。
「高梨様は学校をお休みになったのですか」
「はい。登校はしたんですが、例の噂でもちきりでした。それでとにかくここへ来なきゃ、って」
お茶に映った私の顔が揺れて歪む。
「朔夜から聞かれていると思うんですが、私、起業のための準備をしているんです。幸い、今の工場の社長とか、応援してくださる方がいらっしゃるおかげで、そちらはなんとかなりそうなんです。でも、起業のことばかり考えていて、朔夜となかなか会えなくて」
お茶を置き、向かい合って座っている麻田さんを見る。彼は私をまっすぐに見て話を聞いてくれていた。
「私の大切な人たちを守りたいからって、将来ばかり目を向けていて、目の前のことが全然見えていませんでした。鴻家がこんなことになって、今日が満月だったというのに、変身の可能性すら気づかなかった。だから、せめて今からでも」
拳を握り、身を乗り出す。
「『目の前の』朔夜の支えになりたい。彼を救い、守りたいんです。麻田さん、今はお忙しいかと思います。でも、申し訳ないのですが、今回の乗っ取りについて教えていただけませんか」
現状が見えなければ、今の朔夜の支えになれない。私の頭の中は既にパンパンで、体は重くてだるいけれど、なんとしてでも守ってみせる。
麻田さんは穏やかに微笑み、ふう、と息を吐いた。
「主人をそこまで想ってくださり、ありがとう存じます。それでは簡単にお話いたしますが、その前に」
優雅な仕草で私のお茶を指す。
「少しお茶で体を温めてください。失礼ですが、高梨様は今、お疲れのようです。主人へのお気持ちは大変ありがたく存じますが、どうぞ御身もおいといくださいませ」
私がカップを持つと、軽く頷いた。
「高梨様が主人を大切に思ってくださるように、主人も高梨様を大切に思っているのですから。それに……」
麻田さんから聞いた話をごく簡単にまとめてみる。
鴻グループは、何年も前から少しずつ力を失っていた。それでもブランド力は絶大だったので、表面上は経済界の覇者のままだった。
伯父の経営する「オオトリ本家」は、いくつかの小さな会社の総称だ。経営は順調だが、それ自体の規模は小さく、鴻グループに影響を与えるほどのものではない。
だが、伯父には莫大な資産と経営センス、そして人を動かす口のうまさがあった。
鴻グループの総帥が交代したのは、昨日のグループ総会の時だ。伯父がいきなり壇上に登り、宣言したのだという。
そして表立ってお父様側につく会社は、一社もなかった。
お父様は、かなり早い段階からこういう動きがあることを把握していた。それでも止めることはできなかった。
伯父が乗っ取ったのはあくまでも「鴻グループ」であり、鴻家の個人資産や「鴻家当主」の称号はそのままだ。
とはいえ、会社も経済界への影響力も失った鴻家は、このままではお屋敷を維持することすら難しくなっていくだろう。
今朝の話から大体の予想はついていたが、改めて聞くとあまりに乱暴だ。
「そうだ。望夢君は今どうしていますか」
「残念ながら、私にもわかりかねます」
望夢君。学校へ行かず、おそらく跡継ぎになるための教育を受けてきた、朔夜の弟。
実は、麻田さんにこう尋ねた時点で、彼について一つの考えが思い浮かんでいた。でも、安易な思いつきで人を振り回してはいけないと、質問をするに留めたのだ。
「高梨様。どうかご無理なさいませんよう。私も高梨様を大切に思っている一人なのですから」
私が様々なことをどうすべきか考えていると、麻田さんはそう言って微笑んだ。
すうっ、と透き通るような微笑だった。
彼のその言葉に驚く。私を大切に思ってくれていることに驚いたのではない。
彼が、自分のことを話したからだ。
「あ、ありがとうございます。私を、です、か」
「はい。私事ではございますが、高梨様の面差しが、私の娘と似ているのですよ。それでどうしても」
麻田さんに娘さんがいるなんて初めて聞いた。奥さんと大きな子供がいるのかな、とは思ったことがあるが。
どんな子なんだろう。会ってみたい。その気持ちを伝えるべく口を開けた。
だが彼は透き通った微笑を湛えたまま目を伏せ、言葉を続けた。
「ただ、娘は人間として生きるのにはあまりにも可愛らしすぎたのでしょうね。二歳になる頃、神の
立ち上がり、私に頭を下げる。
ゆっくりと、深く、深く。
「卑しい出自の使用人風情が、おこがましいということは重々承知しております。それでも主人と高梨様には、家や種族を超えて幸せになっていただきたいと願わずにはいられないのです。ですからどうかご無理はなさらず。私にできることがありましたら、なんでもお申し付けくださいませ。そしてどうか」
揃えた指先が震えている。
「お二人とも、健康で笑顔あふれる人生をお過ごしくださいませ。末永く、末永く……」
寝室に戻ると、ベッドの上で朔夜が上半身を起こし、気まずそうな半笑いを浮かべていた。その表情を見て先程の出来事を思い出し、操作したはずの記憶が誤作動を起こしそうになる。
「朔夜、ど、どうかな、具合は」
「えっと、おかげさまですっかり良くなった。ありがとう」
どう動いたら自然な動きになるだろう、と考えながら彼のそばまで歩く。ふと気がつくと、右手と右足を同時に出していた。
「そ、そうなんだ。よかった。ぎゅうってするの、今回はあんまり意味なかったね」
「いや、そんなことないよ」
彼に指し示されたので、ベッドに腰かける。
スカートがペティコートに押されて、ふわん、と持ち上がる。
ベッドに置いた右手を彼が握る。その手はいつものあたたかさを取り戻していて、心がふわん、と持ち上がる。
「瑠奈が抱きしめてくれたから、人間に戻る時、かなり体が楽だった。骨や筋肉が変形する時の痛みが、いつもとは全然違ったんだ」
「それならよかった。でも今更なんだけどさ、なんで私がぎゅうってすると、変身しないで済んだり、体が楽になったりするんだろう。この上腕二頭筋から何か特殊な成分が出ているのかな」
左腕を曲げ、力こぶをもりもりと浮かび上がらせる。これだけ巨大な力こぶなら、筋肉以外の何かが入っているのかもしれない。
朔夜は少し笑い、握った手に力を込めた。
「そんなわけないって。多分、凄く単純な理由なんだと思う。ほら、ストレスが掛かると変身の時期がずれることがあるだろ。その逆だよ」
顔を近づける。
「俺にとって瑠奈の腕の中は、最も心安らぐ場所なんだ。だから変身も抑えられて、痛みも和らぐんだと思う」
ふわり、と優しく抱きしめられる。
心がとろり、とやわらいでいく。
ああ、こういうことなのかな、と思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます