21. 想いのままに生きる

 周囲の空気が、ざわりとささくれ立つ。

 言葉がなくてもわかる。周囲の人たちが一気に攻撃的な心を私に向けてきたことを。

 朔夜は教科書を置くと、きょとんとした表情で私を見た。


「勉強をする? 瑠奈の、家で?」


 彼の表情と口調に、不安が頭をもたげる。


 やはり、変だろうか。

 彼が参考書もなにもない長屋で勉強をするメリットはない。

 「私と一緒に勉強するメリット」ならば、例えば「算術を教わる」とかであれば、多少はあるかもしれない。でもそれならば、彼の離れ家で勉強したほうがよっぽど環境がいい。


 それでも、我が家に来てくれたら、なんて思う。

 鴻家に比べたら狭いし古いし、水道もトイレも共用だけど。

 私の生活している場所で一緒に勉強したい、と思ってしまったのだ。


 朔夜は視線を、教科書の上に揃えて置かれた自らの手に移した。

 そのまましばらく固まる。

 背後から女子の「何あいつ」という声が聞こえる。

 私なんかが誘うなんて図々しかったか、という思いが頭を巡る。

 彼が顔を上げた。


「じゃあ、せっかくだから」


 綿あめみたいな笑顔をふんわりと浮かべる。


「算術教えてもらおうかな。参考書も持っていくよ。ついでにまた一緒に昼食も食べようか」


 笑顔がきらきらと零れ落ち、光となって周囲にはじけ飛ぶ。

 ささくれ立った空気が光に飲み込まれる。

 頬が一気に沸騰する。


 視界の端に紅子の姿があった。視線を向けると、可愛らしいウインクを投げてくる。

 彼女に向けて微笑みを返す。

 今、私は、癖になっていた「私なんか」という思考を、わずかに前に出した足で踏みつぶせたかもしれない。




 午前の授業が終わり、昼食の大移動が始まった。

 流れが落ち着くのを待っていると、濁流の合間から紅子が小走りで私の席に向かってくる。


「瑠う奈っ! ねえねえねえ」


 目をきらきらさせて話しかけてきたのに、そのまま黙ってちらちらと朔夜の方を見ている。

 大移動が落ち着くと、朔夜が教室を出ていく。すると紅子は顔をぐいっと近寄せて一気に喋り始めた。


「朝の会話、聞いていたわよっ。やったじゃない。『おうちデート』ね」

「え、いや、デート、じゃなくて勉強」

「何を言っているのよ。愛しの殿方とおうちで二人きりだというのに、勉強なんてありえないわっ」


 ありえない、と言われても。

 以前、朔夜の家で勉強した時も、変身事件の後はしっかり勉強してきた。とても充実したひとときだった。

 帰り際、朔夜はがっかりしたような表情で元気がなかったが、きっと算術の勉強が充分にできなかったからだ。


 いや。そうじゃない。

 紅子の言葉でおかしいのはそこじゃない。そこじゃなくって。


「いいい愛しの殿方って! わ私は勉強をしようって言って、だって朔、鴻君と私はただの級友でライバルだし」

「そうね。今の二人の関係は級友でライバルだわ。でも」


 私の鼻先に人差し指を近づけ、いたずらっぽく微笑む。


、鴻さんをどう思っているのかしら」


 その言葉に、私の心臓は漬物石を素手で殴った時のような衝撃を受ける。

 だが彼女は私の答えを聞く前に、指を離して立ち上がった。


「あら、もうこんな時間。ねえ瑠奈、お食事の後、休憩室でお喋りしたいのだけれども、よろしいかしら」




 休憩室は特別室利用者が食後のお茶を飲むために使うスペースだ。

 受付には紅子が事前に話をしてくれていたらしい。すんなり入ることができた。


 なんとなく豪華な内装をイメージしていたが、実際は教室の延長のような内装の部屋に、ティーテーブルのセットがぽつぽつと置かれているだけだった。それでもやはり少しだけ緊張する。

 今日の利用者は私たちだけのようだ。中央のテーブルで紅子が手を振っている。


「来てくださってありがとう。私、一度瑠奈とゆっくりお話をしてみたかったのよ」


 そう言って芍薬のような笑顔を浮かべる。私は反射的に「そんな、私なんかと」と言いそうになり、口を押さえた。

 違う違う。ここは。


「ありがとう。私もだよ」

 

 にっこり笑って向かい合う。


 大河内家の給仕の人が私にも紅茶を淹れてくれた。紅子がテーブルに置かれた焼き菓子を勧めてくれる。

 その焼き菓子を見て、思わずあっと声が出てしまった。


「わ、これ玉鉤国ぎょっこうこくのお菓子じゃない。Kuih Bahuluクエ・バフルでしょ」


 月例試験で朔夜を抜いた時、自分へのご褒美として例の飯屋で買うお菓子だ。もう何か月も食べていない。


「あら、ご存じなのね」

「うん。うちの近くに美味しい玉鉤国料理の飯屋があってね。そこでたまーに買うんだ」

「まあ。……あの、もしかしてそこ、賀臼がうす町にあるお店かしら」

「そうそう。よく知っているねえ。やっぱり有名なん」

「ええっ!」


 紅子が顔に合わない叫び声を上げる。給仕の人がぎょっとして振り返っていた。


「ご、ごめんなさい。瑠奈、そこへはよく行かれるの」

「よく、ってほどでもないかなあ。ちょっと高いんだよね。でも月に一度は行くよ。近所だから」

「近所……」


 紅子は頬を押さえて私を見た。


「実は、私の恋人が、そこで料理人をしているの」


 その言葉に今度は私が叫びだしそうになる。


「え、ええ……。凄い偶然」


 苦労して叫びをお腹の中に戻す。

 偶然、と言える種類のものなのかわからないが、驚きすぎて咄嗟に出たのがこの言葉だった。


 紅子に恋人がいる、というのは、なんとなく理解できる。美人だし。

 だが彼女はただの美人ではない。大河内製薬の社長令嬢、しかも一人娘なのだ。


「え、えーとえーと、どんな出会いだったか、なんて訊いていいかな」

「うふふ。どんどん訊いて訊いて。でも出会いは普通よ。あのお店の評判を聞いて、食べに行ったのがきっかけ」


 確かに普通だ。でも、そのあまりに庶民的な普通さに頭がついていけない。

 第一、この歳なら考えるであろう結婚や後継ぎはどうするのだ。


「私は一人っ子なのだけれど、会社は継がないの。社内の優秀な方が継ぐ、って昔から決まっていたからね」


 顔に出ていたのだろうか、私の疑問を先回りするかのように話を続ける。


「そして私は大学を卒業したら、別のお仕事をするのよ」

「えっ、紅子、働くの? なんで?」

「だって、私たちにはそれぞれの夢があるのですもの」


 長い睫毛に縁どられた大きな目が私を見る。


「父は自分が作った会社を最高の形で大きくする。恋人は自分の店を持つ。そして私は女学校を作る」


 瞳の強い光に吸い込まれる。


「皆が自分の夢に向かって、想いのままに生きているの。それでも愛情で深く繋がっているから、いつでもひとつでいられるのよ」

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