20. 後悔
耳をすます。しかし鴻グループの話題はそれ以上膨らまず、同業者同士らしい会話に移っていった。
不思議と、驚きはなかった。
私は鴻グループについて殆ど知らない。「いろんな業種の大きな会社がたくさんあるグループ」程度の認識だ。だから普通なら、「ありえない」と思うところだろう。
それなのに、だ。
あちらこちらから声が掛かる社長の背中を見る。
鴻総帥の神経質そうな顔と、私に話しかけてきた時の態度を思い出す。
本当に、本当になんとなくだけれど。
鴻総帥に声を掛ける人は、あまりいない気がする。それは勿論「凄く偉いから
森の中にある大樹を思い浮かべる。
人々から樹齢や幹の太さを誉めそやされ、若木を遮るように枝を伸ばす、がらんどうの老木を。
ひたすら社長の後をついて回る。
経営者同士の会話は、意味不明なことも多い。だが興味深い会社を見つけたり、自分とは違う視点で社会を見ることができたりして勉強になる。
会場にいる人たちは、結髪に制服といういかにも女学生な私が目に付くのか、よく声を掛けてくれる。そのたびに社長は私を紹介してくれた。
「彼女はうちの秘蔵っ子なんですよ」
「病気のお父さんの代わりに、毎日学校帰りに汽罐室で働いている親孝行な子でね」
「あの幾望国立高等中学で、鴻総帥のご子息と学年首位争いをしている秀才でね」
なんで社長が首位争いのことまで知っているのだろう。汽罐長が話したのだろうか。
それはともかく、社長の紹介のしかたが凄く恥ずかしい。ここに来て何度「いえいえそんな、私なんか全然」と言っただろう。
「社長、あの、大変ありがたいのですが、私、そんな大層なものではないので、なんといいますか」
社長は立ち止まり、少し強めの口調で言葉を遮った。
「高梨さん。私はあなたより人生経験が長い分、あなたより人を見る目があります。その私が大層なものだと言っているのですから、大層なんです。それに」
私に目線を合わせるよう少しかがみ、周囲を見回した後、声を落とす。
「改善提案書のことは皆さんに言っていないでしょう。あれはうちの財産ですからね。そのくらいのことは考えて喋っていますから、高梨さんもそんなにおどおどしないで、ガンガン自分の能力を売り込みなさい」
拳を握ってガッツポーズを作り、笑みを浮かべる。
そこまで言われて、ようやく気づいた。
私、どうしてこんなに鈍いのだろう。どうして人が私に向けてくれる好意に気づけないのだろう。
鞄持ちは名目で、経営者の会話からなにかを学んでほしい、という意図があることは理解していた。しかしそれだけではなかったのだ。
社長は私が翼を広げ、今の工場から飛び立てるよう、そっと手を添えてくれているのだ。
集会が終わり長屋へ戻って来た頃には、既に日付が変わっていた。
ベッドに倒れこみ、ごろりと寝返って仰向けのまま靴紐をほどく。
疲れた。仕事の時よりずっと早く帰ってきたし、汽罐室での労働より体は楽だったはずなのだが。やはり気を遣っていたのだろう。
制服を着たまま天井を眺めていると、後悔がじわじわと押し寄せる。
もっと、もっと、「魔法のエンジン」のことを皆さんに伝えたかった。
社長は私のことを多くの経営者の方に紹介してくれた。皆さんも私に興味を持ってくれた。
それなのに、私は卑下したり恐縮したりしてばかりで、肝心のことを話すことができなかった。
私の最大の武器は「魔法のエンジン」だ。社長がそれの存在を知らなかったのだから、自分からどんどん会話に織り込んでいかなければならなかったのだ。
空気を圧縮過熱して、そこに石油などの液体燃料を噴射し、発火させる。それによって膨張する燃焼ガスの力でピストンを動かす、という仕組みの「魔法のエンジン」。
頭の中で色々考えてはいるが、液体燃料には何が最適か、どのくらいの力が出せるか、そもそも本当に動くのか、などは、実際に作らないとわからない。それに高等中学生の頭では知識が足りな過ぎるので、機械に強い人からの助言も欲しい。
私に、おどおどと卑下をしている余裕などなかったのだ。
うじうじと後悔していたら、いつの間にか眠っていたらしい。目が覚めた時には、既に朝日が容赦なく昇っていた。
起き上がる。そして愕然とする。
まずい。制服を着たまま眠ってしまった。
制服はしわしわだし、きっと私、今、めっちゃ臭い。
いくら涼しくなってきたとはいえ、まだ九月だ。制服は寝汗でじっとりと湿っている。結髪をほどいて毛束を嗅いだら、葉巻と汗が絶妙にブレンドされた臭いを放っていた。
こんな臭いのまま学校へ行けない。ざんばら髪のまま、金盥を抱えて共用水道まで走る。
なんてことだ。最近は匂いに気をつけていたのに。
金盥の中にしゃがんで体を
冷たく清潔な水が、汗と、心の淀みを洗い流す。
昨夜の集会で、私は大きなことを学んだ。
夢や想いは、伝えなければ伝わらない。
卑下は、自分に好意を抱いてくれている人の想いを踏みにじる行為だ。
そして思い出す。
朔夜が私を「かわいい」と言ってくれた時のことを。
朔夜は、私に「好意」を持ってくれているのかな。
ライバルとして言い争うことが多いが、思い返してみると、優しい言葉、嬉しい言葉をいっぱいくれていた。
私を助けてくれたり、食事や勉強に誘ってくれたりした。
たぶん、たぶんだけれど、私のことを悪くは思っていないと思う。
「好き」と「嫌い」のどちらか、と言われれば、「好き」寄りなのかな、なんて思ってしまう。
もっとも、私が彼に抱く「好き」とは別の感情だけれども。
身支度を整え、地下鉄道駅まで歩く。
駅の目印である金色の煙突から煙が昇っている。それを眺めていると、足元からドン、という低い音が響き、道路に嵌められた鉄格子から強い風が吹き上げてきた。列車が走り抜けたらしい。
私がぐるぐる考えている間にも、世の中は動き、人は働いているのだ。
よし。私も動こう。
夢のことも、仕事のことも。
でもまずは。
教室に入ると、朔夜は既に登校していて一人教科書を読んでいた。
「ごきげんよう朔夜」
朔夜が顔を上げて微笑む。私の背後から「何あれ。庶民の分際で馴れ馴れしいわね」という囁きが聞こえた。
「ねえ、今度の休みの日、暇?」
「特に予定はないけど」
「そっか。じゃあ」
多くは望まない。望まないけれど、ほんの少しだけ近づきたくて足を踏み出す。
「今度は私の家で勉強しない?」
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