15. 光が満ちる
自動車の音に居ても立ってもいられなくなり、外へ飛び出した。
昼の太陽が眩しい。後部座席のドアを開けようとしていた麻田さんが、私の姿を認めて丁寧な挨拶をしてくれた。
「ごきげんよう麻田さん。こんな下町までありがとうございます」
私の言葉に落ち着いた笑顔を返してくれる。
そういえば彼って、普段どういう暮らしをしているのだろう。
母屋の方に住み込んでいるのだろうか。見た目の歳からして奥さんや大きな子供がいそうだけれど、生活感が全くない。
そして私はなぜ、今、急にこんなことを考えているのだろう。
理由はわかっている。
心臓がどきどきと暴走して胸から飛び出さないように、目の前の人のことを考えて、落ち着こうとしているからだ。
朔夜が自動車から降りてくる。
今日は七月の太陽と同じ明るい色のラウンジスーツを着ている。普段とは違う軽やかでカジュアルな雰囲気だが、自動車を降りる仕草ひとつ取っても上品で、思わずじっと見つめてしまう。
自動車から降りた彼は、私を見て少し驚いたように動きを止めた。
夜空色の瞳がまっすぐ私を捕らえる。
形のいい唇が動く。
「かわいい……」
彼の頬にじんわりと淡い紅が差す。
かわいい。
今、「かわいい」と言った気がする。
私を見て、「かわいい」と言った気がする。
そんなわけない。そんなわけないのに、頬が火照る。暑いなまったく。太陽が面白がって私を照らすからだきっと。
どうしたらいいんだ。「ありがとう」って言えばいいのか。でももし聞き間違いだったらどうしよう。
「そんなことないよ」か。でも否定するのも失礼か。
さらっと流して「ごきげんよう」か。でも言われたことに答えないのもどうなんだ。
ああもう。こういう想いも算術みたいに、正答が導き出せればいいのに。
「あ、ど、どうも」
結局導き出されたのは、こんなしょぼくれた返事だった。
「おそれいります高梨様。お店はこちらからどのくらいの距離ですか」
麻田さんの事務的な問いに救われる。彼の方へ全力で顔を向けた。
「本当にすぐですよ。ここからでは見えませんが、歩いて五分くらいです」
「お店の名前は」
「ええと、なんでしたっけ。いつも『
「玉鉤国」
そこで麻田さんと朔夜は顔を見合わせた。なにかまずかったかと思った時、麻田さんが再び口を開いた。
「失礼いたしました。望夢様のお付きの者が玉鉤国人の血を引いておりますので、おお、と思いまして。ところで」
にっこり、と口角を上げている。
「それほど近いのでしたら、ここからお二人で歩いてみてはいかがでしょうか。お食事前の良い運動になりますよ」
確かにそのほうがいいかもしれない。自動車を見るとエンジンが切られているので、今から再びエンジンをかけて乗り込んで、と考えると、庶民の頭では「ぱっぱと歩いたほうが早いや」となる。
朔夜も歩くことを了承したので、麻田さんにこれから行く店の場所と、麻田さんが昼食を摂るのにお勧めの飯屋を伝え、歩き出した。
私の家がある町は、勤め先と学校のどちらからも少し離れている。
工場街ほど煤煙もないし学校周辺ほど気取ってもいないので、非常に住みやすい。
朔夜と二人、並んで歩く。
それだけで、幼いころから見慣れた風景が変わって見える。
細い路地。ずらりと建ち並ぶ同じような造りの長屋。汗まみれで遊ぶ子供。家の前に出した椅子に、肌着の腹部分をまくった姿で座ってくつろぐおっちゃん。
そのひとつひとつが、光に満ちている。
朔夜を見上げる。あたりを見回している彼の表情は楽しそうだ。私の住む町に良くない印象を抱いていないみたいだな、と思い、ほっとする。
彼が私を見た。
「その髪型」
一度目を逸らし、再び見る。
「凄く、似合っている。リボンも」
「あ、ありがとう。あのね、これね、紅子に結い方を教わったの。私なんかがこんな『女学生です』みたいな髪型にしてもどうかなって、髪色もこんなだし、ばさばさだし、紅子みたいに美人じゃないし、頭だけ、ぼかーんって浮いて見えるかななんて、私なんかが」
ただ一言「ありがとう」と言えばいいのに、はっきりと褒められ動転する。
生まれてこのかた、外見でポジティブな言葉を掛けられたことがないので、どう対応したらいいのかわからない。
「瑠奈、『私なんか』なんて、言うなって」
朔夜が少し怒ったような声を上げた。
「本当に似合っているからそう言ったんだし。それに、俺は、瑠奈は」
ぎゅっと唇を噛みしめ、立ち止まる。
「か、かわいいと、思う」
彼の紅潮した頬に汗が伝う。
目の前いっぱいに光が満ちる。
長屋も、子供も、腹を出したおっちゃんも、全てが光の向こうに飛んでいく。
かわいい。かわいい。かわいい。
今のは聞き間違いじゃない。朔夜が、はっきりと、かわいいと言ってくれた。
綿あめが爆弾となって私の心で弾け飛ぶ。
「あ、りがとう」
微笑みかける。微笑みを返されて俯く。
顔を上げ、微笑み合う。
お互いほんの少しだけ近寄る。
私の手首に彼の手が当たる。
手を引く。しばらくすると、また当たる。
彼と手を繋ぎたい。そんな衝動に襲われる。
彼の指先に触れる。
手を引く。
今日の太陽は、どうしてこんなに眩しくて暑いのだろう。
飯屋の目印である水色のドアが見えてきた。ここまで来ると、飯屋から漂う香りに胃袋が反応する。
スパイシーな独特の香りだが、慣れると妙に癖になるのだ。
玉鉤国は
昼時だからか、広い店内のテーブルはぎっしりと埋まっていた。
朔夜は椅子の横でしばらくおろおろした後に座った。
そうだ、言うのを忘れていた。「飯屋」は椅子を引いてくれる店員などいない、ということを。
「じゃあ、まずは冷たいコーヒーでも頼もうか」
「冷たいコーヒー?」
「うん。美味しいよ。この
どうやら玉鉤国料理は初めてらしい。目をきらきらさせて、静止も聞かずにあれもこれもと注文している。
まあ、楽しんでもらえるならいい。注文を終えて店内を見渡したとき、あるテーブルに視線が釘付けになった。
朔夜も気づいたらしい。後ろを向き、同じ方向を見る。
遠くの席に、笑いながら男性と一緒に食事をしている、望夢君がいた。
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