18. あなたは私が守る

 あまりの高熱に、思わず小さな声を上げた。

 普通の風邪などでは絶対に出ることのない、この熱は。


 朔夜の顔は窓の外に向けられたままだ。顔を覗き込む。夜空色の目は、ここではないどこか遠くを見ているようだった。


「朔夜、大丈夫?」


 訊きながら愚問だと思う。この熱で、この様子で、大丈夫なわけがない。

 離れ家に到着する。異変を察知したらしい麻田さんは、こわばった表情でドアを開けた。

 朔夜を抱えるようにして自動車を降りる。彼を抱える手が焼けそうなくらい熱い。この熱を全身に宿している朔夜は今、どれだけ苦しいのだろう。


「高梨様」

「麻田さん。朔夜、例の熱があるみたいですので、寝室まで連れていきます」


 朔夜に肩を貸そうとするも、身長差のせいかうまくできない。彼は私を見て体を離すそぶりを見せた。

 どろりとした力のない瞳に胸が苦しくなる。


「瑠奈、熱いだろ。大丈夫だから。いつもの、ことだから」

「どう見ても大丈夫じゃないよ。ほら、体預けて。私、朔夜くらいの目方めかたで潰れるほど華奢なつくりじゃないから、思いっ切りどさっと来な」


 しかし彼は体を預けようとせず、自力で歩きだした。きっといつも学校で、こうして一人で歩き、人目のない場所へ行っているのだろう。

 そしてそこで、制御できずに変わっていく自らの体を隠しているのだ。

 こんな思いを毎月していたなんて。

 彼の孤独を、苦しみを思い、唇を強く噛む。


 ベッドに横たわらせる。彼の顔を窺っていると、麻田さんに声を掛けられた。


「もう少しで変身が始まります。主人がもとの姿に戻るまで、書斎でお待ちになりますか」

「いえ」


 ボイラーのように熱を帯びた頬に触れる。


「付き添います。独りで苦しい思いをさせたくない」


 麻田さんは何か言いたげに口を開きかけたが、言葉にすることはなく、頭を下げて部屋を出て行った。

 手首が熱くなる。朔夜が私を掴んでいた。


「瑠奈。出て行ってくれ。俺の、みっともない変身と、醜い、けだものの姿を、もう、瑠奈に、見られたくないんだ」


 心が擦り切れそうなほど寂しい笑みを浮かべる。

 私は彼の手をそっと外し、両手で包み込んだ。


「変身の時を見られたくないなら、見ないよ。でもね、私は別にあれを『みっともない』なんて思わない。それに」


 顔を寄せ、微笑む。


「人間の姿をした朔夜も、銀色の狼姿の朔夜も、どっちも、格好いいよ」


 言ってしまった、と心が叫ぶ。脳内にいる小さな私が、恥ずかしさに頭を抱えて走り回る。

 でも、それらを全て押し込め、両手に力を込める。


 朔夜が呆けたような表情をして私を見る。しばらくして、はにかむように俯いた。

 束の間、柔らかな空気が漂う。けれどもすぐに、彼は低いうめき声を上げて背中を丸めた。


 小刻みに震える。耐えるように歯を食いしばる。その歯の間から、めりめりという音と共に鋭い牙が生えてきた。


 その姿を見て、頭の中で何かが弾け飛ぶ。

 私は彼に覆いかぶさり、その体を強く抱きしめた。


 それは本当に衝動的に。ただただ彼の苦しみを受け止めたくて、熱も孤独も全て飲み込んでしまいたくて、強く、強く、抱きしめた。

 彼の背中の奥からぱきぱきと何かが折れるような音が聞こえる。白い喉が膨らみ、毛穴の一つ一つから銀色の毛が伸びてくる。


 どんなにか、どんなにかつらいだろう。

 苦しくて、痛いだろう。

 私が代わってあげたい。せめてその苦痛を分け合いたい。

 どうか、どうか少しでも。どうか。


 力を入れ過ぎたせいで腕が震えてきた。姿勢を変えようと腕の力を緩める。

 その時、彼の体に変化が訪れていることに気づいた。


 背中の音が止んでいる。銀色の毛もまばらになってきた。あんなに熱かった体も、少しずつ、少しずつ熱が引いていく。

 牙も消える。やがて彼の体は、何事もなかったかのように元通りになった。

 完全に変身することなく。


 元に戻った彼は、そのまま静かな寝息を立てて眠り始めた。

 体を離す。ベッドの縁に腰かけたまま寝顔を眺めていると、十分ほどで目を覚ました。


「朔夜、大丈夫なの。もうちょっと寝ていれば」


 いかにも「寝起きです」という表情が新鮮だ。上体を起こした彼は結構長い時間私を見つめた後、呟いた。


「こんなこと、初めてだ」


 私が首をかしげると、言葉を続ける。


「変身しかけただけで元に戻れたことなんて、今までなかった。いつもと全然違って、凄く体が楽だ」

「よかったねえ。体の負担が最小限に抑えられたのかな。変身しなかった理由はなんなんだろう」


 私が考えたところでわかるはずもないが、考えてみる。


「今日って、七月の満月サンダームーンまで少し日があるじゃない。だから変身しきれなかったのかな」

「いや。今日変身してしまった理由には心当たりがある。たぶんあの、家の前にいた男を見たせいだ」


 そういえばそんな人がいた。すぐにそれどころではなくなって忘れてしまっていたが。


「強いストレスが心にかかると、多少日がずれることがあるんだ。あの男は伯父なんだけど、なんというか、その、嫌いで」


 見かけただけでそこまでストレスがかかるほど嫌いって、相当だ。

 何故そこまで嫌いなのか知りたい気もするが、今これ以上話題にしたら、無駄にストレスをかけてしまう。だから今日は流すことにした。

 

「そして変身しなかったのは、多分、瑠奈のおかげだよ」


 手入れの行き届いた両手をぐっと握り、俯く。


「瑠奈にその、だ、抱きしめてもらったら、骨の変形が止まっていくのを感じたんだ。それから発毛の勢いも止まって、するすると体の組織が元通りになっていって。発熱とは違う、柔らかなあたたかさが体中に満ちて」


 私の目を正面から見つめる。


「ありがとう。凄く、助かったよ」


 ベッドの上で深々と頭を下げる。

 私が抱きしめると変身が止まる。そんなことがあるのだろうか。

 理屈で考えるとあり得ない。しかし人狼族の存在だって、学校で習う理屈ではあり得ないのだ。


「いえいえ。それよりもさ、私がさっきみたいにぎゅうってやれば、変身しないで済むってこと?」

「多分。俺の体の感覚だと」

「じゃあ、これからは毎月、私がぎゅうってして変身を抑えるよ」

 

 理屈はわからなくても、今回は私の抱擁で変身せずに済んだ。それならば、これからも私がずっと抱きしめ続ければいい。

 必死になって遠慮する朔夜を押さえ、勝手にそう決定する。




 朔夜を救えるのならば、なんだってする。

 彼は私が守る。なんとしても。


 だって、彼は私が一番大切な人で。

 私の、大好きな人だから。

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