46. 作業靴とデビュタントバル

 朔夜には毎日どきどきさせられているが、今日の「どきどき」はいつもと違う。

 壇上の朔夜を見つめながら、私はずっと祈り続けていた。


 首席として述べる朔夜の答辞、どうかスムーズに述べられますように。「噛み」の連鎖が起きませんように。緊張で話が飛びませんように。演壇から降りるとき、つまづいて転んだりしませんように。

 大丈夫。朔夜ならきっと立派に務め上げられる。だって昨日、あんなに二人で練習したんだもの――。




 卒業式では、多くの生徒が泣いていた。

 他のクラスと違い、混合予科クラスの人たちは、ほとんどが同じ大学に進学する。それでも「卒業」となれば今の校舎や先生たちとはお別れになるので、皆、涙を流したり瞳を潤ませたりしていた。


 私は卒業式で泣かなかった。

 だが。


 式典の後、教室に戻る。盛り上がる皆をなんとなく見つつ荷物をまとめようとした時、紅子が駆け寄ってきた。

 泣きすぎたのだろう。本来ぱっちりとした美しい目元が、別人になっている。彼女は私に向かって震える声を上げた。


「瑠奈ああ。元気でねええ。お仕事頑張ってねええ。お手紙書くわあっ」


 ぎゅうっ、と抱きしめられ、そのままぶんぶんと揺さぶられる。


 じゅわん、と心が熱くなる。

 卒業までの二年間、ずっと私に付きまとっていた、重い疲労、睡魔、悪口、嫌味、差別。

 それらがすうっと溶けて消えていく。

 嚙み締め続けた奥歯、握りしめ続けた拳の力が抜けていく。

 鼻の奥が、つんと痛くなる。


 ああ、私、卒業しちゃうんだ。


「紅子おお」


 抱きしめ返してぶんぶんと揺さぶる。


「ありがとうう。元気でねええ。手紙書くよおうっ」


 ありがとう、紅子。

 あなたの存在に、どれだけ救われたことか。

 大学卒業後、自分の力で羽ばたく紅子。いつかまた、仕事を通じて再び顔を合わせ、手を組む気がする。

 だからその時まで、さようなら。




 卒業式の翌日、私はぽっかり空いた一日をどう埋めようかと考えていた。

 今朝、工場からいきなり「今日はお休みです」と書かれた速達が届いた。だから夜も空いてしまったし、昼間はもともと予定がない。

 鴻家の人たちが皆、朝からデビュタントバルの準備にかかりきりなので、仕事の打ち合わせができないのだ。


 今夜、幾望きぼう国立劇場で、年に一度のデビュタントバルが開催される。

 デビュタントバルは女性の社交界デビューの場、というだけでなく、親や関係者が見栄張り大会をする場でもある。

 そのため今夜は、紅子のエスコートをする朔夜は勿論、朔夜のご両親や望夢君も参加するそうだ。麻田さんや平山さんも同行する。


 先日行われた話し合いの結果、望夢君が鴻家を継ぐかどうかについては、一旦保留という形で落ち着いた。また妻をめとらないことについては、なんとか許可してもらえた。

 望夢君の想いをご両親が理解してくれた、というのが一番大きいが、現実問題として、現在の状態では今まで通りの「鴻家」を維持することが厳しい、というのもあるようだ。

 それでも、というか、だからこそ、デビュタントバルは「偉大なる鴻家」を見せつけるために重要らしい。




 話し合いを思い出した後、なんとなくダンスのステップを踏んでみた。

 体操の成績はあまりよくなかったが、一応、ダンスの基本はマスターしている。長屋の中で、教わった通りにくるりと舞う。

 作業靴が床をこすり、視線が窓から壁に掛けてある制服に移る。


 多少くたびれてはいるが、まだ充分に着られる状態だ。伯父との争いの際に破れた裾は、鴻家の女中さんに繕ってもらったので、ぱっと見ではわからない。

 上質な生地で仕立てられた、深緑色の制服。


 制服も、ダンスも、本来「私の世界」のものではない。

 今夜、デビュタントバルに集う人たちの世界のものだ。


 足を止める。

 制服を見る。

 こみ上げる感情を嚙み潰す。


 私は制服を手に取り、鋏を入れた。

 私たちの工場で使う拭き取り用の布ウエスにするために。




 家のことを一通り済ませた後、父のお見舞いに行った。

 すっかり慣れ親しんだ独特の匂いの向こうに父がいる。父は私を見て、少し悲しそうに微笑んだ。


「瑠奈、昨日で高等中学を卒業だったんだろ。おめでとう。偉いなあ」

「ありがとう。やっぱし首席は無理だったんだけどさ、いっぱい勉強できたし、楽しかったよ。でさ、もう学校ないし、明日っからは昼夜ぶっ通しでバリバリ働くよ」


 私がそう言って力こぶを作ると、父は悲し気な微笑みを浮かべたまま俯いた。


「瑠奈」


 肉の削げ落ちた、火傷だらけの大きな手を握る。


「もうな、お父ちゃんのことはいいから。罐焚きもやめて、これからは自分のやりたいことだけをやんな。ごめんな。今まで、ありがとよ」


 病室のよどんだ空気に声が溶ける。私は思わず声を張り上げた。


「何言ってんだよお父ちゃん。そんなことしたら、お父ちゃんがあの工場に帰れなくなるよ」

「だから。もう、いいんだよ」


 全てが抜け落ちたような笑みを向ける。


「瑠奈は鴻様のお坊ちゃんと良い仲なんだろ。それなのに、こんな親父のために苦労するこたあねえ。お父ちゃんだって、自分がおめえの邪魔になりたくねんだよ」


 父の言いたいことはわかる。おそらくずっと、その考えを抱いていたのであろうことも知っている。

 それでも私は、ここが病室であることも忘れてさらに声を上げた。


「お父ちゃんが元気になるまで、私、罐焚きはやめないよ。ねえ、何度も言っているじゃない。私の『魔法の』……いや、『タカナシエンジン』は、時代を変えるんだよ。自分の大切な人を放り投げるような奴が、世の中の人を幸せにするものを作れるわけがないよ!」


 金策とか、将来の不安とか、全てを振り払うように父に向かって指をさす。


「見ていてよ、お父ちゃん。もうすぐ私たちの会社が動き出す。それと同時に私はエンジン開発を始めて、一年後には完成させる。その間にお金を貯めて、お父ちゃんに手術を受けてもらう。そして会社はどんどん大きくなって、タカナシエンジンはどんどん売れて、何十年後かには自動車から大型船まで動かすようになって、やがて『タカナシ』は人名じゃなくて、エンジンの種類を指すものだと思われるようになるから」


 私の大声を聞いて看護人が飛んできた。

 声を落とし、父に微笑みかける。


「私はお父ちゃんに、そんな世界を見せるから。そうしたらさ、ご褒美に、でっかい綿あめを買ってよ」




 一月の夜は早い。気がつくと、すっかり夜が更けていた。


 会社関係の帳面を閉じ、窓の外を眺める。

 意外と明るい。そういえば、今夜は一月の満月ウルフムーンの日だ。


 朔夜と一緒にいるようになってから、常に満月を意識するようになった。

 今月の変身は、一昨日起きたので大丈夫だろう。あの時は答辞の練習をしていたので、すぐに抱きしめることができてよかった。


 せっかく満月だと気がついたのだから、ちょっと外に出て月見でもしようかと思った時、自動車のエンジン音が聞こえた

 音はだんだん大きくなり、うちの前で止まった。

 そして、ドアをノックする音。


 なんだろう。こんな時間に。


 ドアを開ける。

 するとそこには、麻田さんが微笑みを浮かべて立っていた。

 彼の抱えた大きな包みに、一月の満月ウルフムーンの白い光が落ちている。

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