8. ありがとう、瑠奈

 今日は反省することばかりだ。

 鞄と頭陀袋を抱え、とぼとぼと地下鉄道駅へ向かう。


 授業は決定的な所を聞き逃した。歴史の教科書を確認したら、ふわふわと聞き流した武将たちに関する記述は、生没年しかなかったのだ。

 そのうえ昼休みは、湧きあがる感情を封じ込めるのにすべての力を使ってしまった。

 あの時、どうして心が乱れたのか。頭に浮かぶ理由を必死にかき消し、鞄を抱える腕に力を入れる。


 地下鉄道駅の金色の煙突が見える頃、背後で大音量のクラクションが鳴り響いた。

 何事かと振り返る。音の主は鴻君の自動車だった。


「おそれいります、高梨様」


 運転席から執事の麻田さんが降りてきて、丁寧な挨拶をしてくれた。

 彼には以前、鴻君の家から我が家まで送ってもらったことがある。肩書は一応執事だが、実際には鴻君の身の回りの世話を一手に引き受けている人だ。


 道行く人がちらちらと見てくる。私だって、いかにも「名家の執事です」みたいな姿の彼に往来で頭を下げられると、どう対応したらいいのかわからない。


「あ、ええと、お久しゅうございます。先日はありがとうございました」


 二週間前の出来事なんだから、久しゅうってほどでもないよな、と自分に突っ込みを入れてみる。麻田さんは上品な笑みを浮かべて自動車を指し示した。


「おそれいります。ところで高梨様は今からお勤め先に行かれるのですか」

「はい」

「もし高梨様がよろしければ、自動車でお送りいたしたく存じますが、いかがでしょうか。地下鉄道よりも快適ですし、おそらく少し早く着きますよ」


 凄くありがたい申し出だが、申し訳なさすぎるし、そもそもそこまでしてもらう理由もない。

 そんな断りの言葉をぐるぐる考えていたのだが、気がつくと麻田さんのペースに乗せられてほいほいと車内に入れられ、ドアを閉められていた。

 車内には、当然だが鴻君がいた。


「や……やあ」


 私の乗るスペースを空けながら、なぜか困惑したような半笑いを浮かべている。


「よろしゅうございますか。それでは工場の近くまでお送りいたします」


 車内のなんともいえない空気を置き去りにして、麻田さんは自動車を走らせた。




 半分開けられた窓から入ってくる風と座席から伝わる振動が心地よい。

 鴻君は半笑いのまま頭を下げた。


「突然ごめん。下校中の高梨さんを見かけた麻田が、工場まで送ってはどうかって言って、その、気づいたらこうなっていて。迷惑じゃなかったかな」

「ううん。迷惑なんてとんでもない。ありがたいこと、だけど、ん? 麻田さんが、送ると言ってくださったの?」

「そそうなんだ。彼、彼がそう言うから」

「さようでございます。主人が高梨様の体調やお仕事のことを気にかけておりま」

「ああさだ!」


 鴻君の嚙み気味な叱責を受けて麻田さんは口を閉じた。


「体調、気にしてくれていたの」

「え、あ」

「ありがとう。ごめんね」


 微笑んで頭を下げる。

 そうか。彼に心配をかけてしまっていたのか。これからは疲れを顔に出さないよう気をつけなければ。


「そうだ高梨さん。折角だからエンジンの話の続き、教えてよ」


 先ほどの話題がなかったかのように、急に話題が変わる。彼は上体をねじり、話をしっかり聴く体勢を取ってくれた。


 夜空色の瞳に私が映る。

 紅子の美しい姿を思い出し、胸に針が刺さる。

 唇を噛み、笑顔を作る。


「聞いてくれるの? ありがとう。あのね、蒸気機関との一番の違いはさっき話した通りなんだけど――」

 



 それから目的地に着くまでの時間、たくさんのことを話した。「魔法のエンジン」のこと以外にも、色々。


 父が入退院を繰り返しており、回復する目途が立たないこと。

 卒業後は職業婦人として自立し、家庭に入る気はないこと。

 しまいには「普段の食事は握り飯と饅頭」なんて話までした。


 話し出すと止まらなかった。

 彼の家ではここまで話ができなかったのに。なんだかあの時よりもほんの少しだけ心の距離が近くなったような気がして、この時間が楽しくて仕方なかったのだ。


「――っと、私、ひたすら自分語りしちゃった。はしたなくてごめんなさい」

「いや、楽しかった。高梨さんの話がたくさん聞けt」


 語尾の「て」は途中で消え入り、彼の口の中に戻っていった。

 はにかむような笑みを浮かべて目を伏せる。

 そのまま不思議な沈黙が続く。やがて窓から流れ込む空気が強い煤煙の臭いに変わっていった。

 工場街に入ったのだ。


「高梨さん」


 長い沈黙の後、改まったような声で話しかけられた。私が首をかしげると、少し目を左右に動かした後、見つめてくる。


「もし嫌じゃなければ、これからは名前の方で呼んでもいいかな」

「ほい?」


 己の相槌の愉快さに恥ずかしくなる。なんだよ「ほい」って。

 いやそれよりも。


「いいけど、なんで?」


 今ここで「なんで」という直接的な疑問を投げかけたら、鴻君が答えにくいかもしれない。でもあまりにいきなりで意外な申し出に、「なんで」と言うしかない。

 彼は「ええ……」みたいな呟きを吐いた後、僅かに視線を逸らした。


「もしかしたらこういうのって、自然とお互いそう呼ぶものなのかな」

「どうだろう。人それぞれじゃないかなあ。私が今、学校で名前呼びしている人って紅子だけだけど、仲良くなってからなんとなく、な気がする」

「そうか。でも俺、そういう人がいなくて」

 

 言われて気づく。

 そうだ。彼は周囲から勝手にあがたてまつられ、距離を置かれている。

 だからある意味、私とは正反対の理由で孤立しているのだ。


 孤立。

 いや、孤立なんかしていないか。

 だって私が。 


「朔夜」

「えっ」

「だから、名前。私も呼んでいいでしょ、朔夜って」


 言っている途中から猛烈に頬が熱くなる。生え際からじわじわと汗が滲む。笑顔になってみるが、口が笑顔の形になっているか自信がない。

 鴻……朔夜は少し笑い、口を開いた。


「ありがとう、瑠奈」


 囁くような「瑠奈」という声が、耳を震わせ頭の中で大きく響く。

 いたたまれなくなって身を捩る。


 なんだ私。どうした私。なんでこんなに暑いんだ。


 相手を名前で呼ぶ。ただそれだけのことなのに、心臓が体内を駆け巡る。

 心臓を元の位置に収めねば、と考えているうちに、自動車は工場近くの大通りに停まった。




 慣れないスキップで工場へ向かう。

 頭の中では、別れ際の「また明日、瑠奈」の声が何度も繰り返される。

 今ならスキップしながら空を駆け上がれるかもしれない。

 角を曲がる。


「よう」


 朔夜の声の記憶を、洗濯糊のようなねばついた声がかき消す。

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