【七月】サンダームーンに抱えた秘密

7. 夢の檻の中へ

 鴻君の家に行ってから二週間が経った。

 休み時間。鴻君の煽りに腕を組んで言い返しながらも、どこかほっとしている自分がいる。


 やはり私にとって鴻君は、級友でありライバルなだけだ。

 だから、これでいいんだ。


「何よ。確かに私は歴史と幾望国語きぼうこくごが苦手だけどさ、点差はそんなにないでしょ。それに算術では絶対負けませんー。私い、満点しか取ったことないんでえ」


 彼の苦手科目を持ち出して煽り返す。もしここで体操や裁縫を話題に出されたら大負け確定なのだが、算術ダメージが効いたのか、彼はぐっと声を詰まらせてふてくされたような表情を浮かべた。


 勝った、という気持ちの中に、小さな痛みが混ざる。

 私、嫌な奴だな。鴻君が傷ついていたらどうしよう。


「ふ、ふん。今月の月例試験が楽しみだなっ」


 これは鴻君が言い負かされた時の決まり文句だ。もっとも、実際の試験では総合点で鴻君に負けることの方が多いのが我ながら情けないのだが。


「ところで高梨さん、前から気になっていたんだけど、どうして『首位』にこだわるの。仕事と勉強の両立って体が大変だろ」


 首位にこだわる、という点は鴻君だって同じだ。しかし彼の理由はなんとなくわかる。大学進学のためとか、鴻家長男として云々、とか、その辺だろう。

 しかし大学へ行かない上にこの間倒れたような私がどうして、と思われるのは仕方がない。


 私は今まで「夢」のことを学校の人に話したことがない。まともに会話をしてくれるのが鴻君と紅子だけだから、当然ではあるのだけれど。


「私ね、夢を叶えるために、少しでも良い工場に入りたいんだ。で、『首席卒業』だと経歴書にそう書けるから、凄く有利なの。だけどそれ以外は二位でも最下位でも『卒業』になっちゃうんだよね」


 思えば、ずっと首位争いでやいやい言い合っていたのに、こういう話をするのは初めてだ。


「夢?」

「うん」

「どんな夢?」

「『魔法のエンジン』を作る夢」


 背後のどこかから囁き声が聞こえる。


「あいつ、鴻君に馴れ馴れしいわよねえ」

「身の程を知らない所もお里が知れますわ」


 またか、と思っていると、鴻君がすっと視線を上げた。

 僅かに細められた目が冷たい光を放つ。背後の囁き声がぴたりと止んだ。


「へえ。魔法のエンジンか。何それどういうものなの」


 私に向き直った彼は、そう言って興味深げに身を乗り出してきた。

 まっすぐな瞳が私を映す。

 胸の奥が小さな声できゅっと鳴く。




 鴻君に説明をしている途中で、授業開始の音楽が鳴った。

 次は苦手な歴史だ。だからしっかり先生の話を聞かないといけない。それなのに、私の心はあたたかい空に向かってふわふわと舞い上がっていた。


 夢の話を、ここまで細かく話したのは初めてだ。

 「こんな感じのものを作りたい」くらいなら、父や汽罐室のおっちゃんたちにも話している。皆応援してくれているが、「大きくなったら魔法使いになる」みたいな夢と同列に考えている節がある。

 そのくらい突拍子もないものを作ろうとしている、ということは自覚している。


 だが鴻君は熱心に聞いてくれた。

 時には構想のふわっとしすぎている部分に鋭い突っ込みを入れられたりもした。

 それが嬉しかった。

 「魔法のエンジン」を動かすのは「魔法」ではない、と言ってくれているような気がしたのだ。


 鴻君が私の夢を受け止めてくれた。

 私の話をたくさん聞いてくれて、たくさん話してくれた。

 どうしよう。あまりに空があたたかくて、このままどこまでもふわふわ飛んで行ってしまいそうだ。


 遠くで先生の声が聞こえる。

 初めて聞く武将のものらしき名前がいっぱい出てきているが、なんの話をしているのだろう。




 やらかしてしまった。

 授業の前半を、ほぼ全て聞き逃してしまった。私には家庭教師や参考書といった学習手段がないので、授業を聞き逃してしまったら、教科書に全てが書いてあると信じて祈ることしかできない。


 夢の話のせいで夢から遠ざかってしまったら、笑うに笑えない。己の甘さに深く落ち込みながら、鞄から握り飯を取り出した。


 昼休みになると、学校全体が歪むような大移動が始まる。殆どの人は給食を食べるために学生食堂へ行くのだが、弁当を食べるために教室に残る人や、家の料理人が作った昼食を届けてもらって食べるために、特別室へ向かう人もいる。

 給食派は苛烈な席取りや順番待ちがあるので、いつも授業が終わると同時に教室を飛び出していく。


 給食派が巻き起こす暴風の向こうに、鴻君の姿があった。

 彼は特別室派らしく、いつも大移動が一段落するまで座っている。昼食を摂る前に先程の話の続きをしようと席を立った。


「鴻く……」

「鴻さん」


 私が声を掛け終わるよりも前に彼の目の前に立ったのは、紅子だった。


「お話ししたいことがあるのだけれど、お昼、ご一緒してもいいかしら」


 鴻君が軽く頷いて立ち上がる。


「ああ、デビュタントバルのエスコートのことだろ」

「そうそう。ごめんなさい。私の身長だとどうしても相手より高くなってしまって」

「別に気にすることはないと思うんだけどなあ」


 暴風が去った教室の中で、二人の姿が浮かび上がる。

 彼らの周りだけ、澄んだ光が射しているように見える。


 紅子は美人だ。

 くっきりとした華やかな顔立ち。艶やかな黒髪。本人は高身長を気にしているが、腰の高さや胸の豊かさは異国の女神像さながらだ。

 その上明るくて人当たりが良く、「大河内製薬」社長令嬢。


 鴻君と並ぶと、凄くお似合いだ。


 二人は何かを話しながら教室を後にした。

 教室を出る時、鴻君がこちらを見て何かを言おうとしていた。だが私は微笑んで手を振り、視線を外した。




 誰もいなくなった教室で握り飯を頬張る。

 目の奥からしょっぱい味がする。

 胸の中にヘドロのような想いがぼこぼこと臭い泡を立てて湧きあがる。


 上流家庭の女性は、十八歳頃になると社交界デビューする。だから高等中学に通っている女生徒は大抵、卒業式の翌日に開催される大規模な舞踏会に社交界デビューする人デビュタントとして参加する。

 紅子は、鴻君を舞踏会のダンスのエスコート役にしたいのだろう。


 わかっている。

 エスコートは単なる「踊りの相方」だ。私にとって鴻君は単なる級友でライバルだ。それだけだ。

 それなのに、どうして私の胸の中にはヘドロのような想いが湧き、息ができないほどに苦しいのだろう。

 

 胸の中から目を逸らし、夢の中に逃げ込む。

 そうだ。私には夢がある。それ以外はなにもいらない。

 だからそれだけを、考えるんだ。

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