39. 対面
後頭部が酷く痛む。
肩から肘にかけても鈍い痛みを覚える。体を動かそうとしても思うように動かない。
どうやら私は椅子に体を縛りつけられ、手首も後ろ手の状態で縛られているらしかった。
目を開ける。
わずかな赤みを宿した宵の光だけが漂う、
三人、いや四人か。そのうち二人が鳥打帽を被っている。状況が掴めず周囲を見渡していると、扉の前にいた男のうち鳥打帽を被った一人が振り向いた。
「起きたみたいっす」
その言葉に全員がこちらを見る。
鳥打帽二人が歩いてきた。彼らは朔夜の家の前にいた「記者」だろう。もしそうだとしたら、どうして私はあの時点で気がつけなかったのか。
今まで様々な人と接する機会があった私だ。こうして改めて見ればはっきりとわかる。
彼らは新聞記者なんかじゃない。
この歩き方、身のこなしは、社会でまっとうに生きていない者のものだ。
縛られた手から、すう、と血が引いていく。
「やっぱ、冴えねえ女だな」
「本当にこいつでいいのかな」
彼らは私から一定の距離を保ったまま、そんなことをぶつぶつ言っている。
なんでこんなことになったのか、彼らは何がしたいのか、全く理解できない。
誘拐されたのだろうが、こんな庶民を誘拐してどうするつもりなのか。
冷気が足元から這い上がってくるのと同時に、恐怖と混乱が喉の奥からせりあがる。
気持ち悪い。吐き気がする。
こわい。
「おい、そんな景気の悪い
男が口の端を吊り上げる。
その直後、扉が低い音を立てて開き、一人の男が入ってきた。そして扉付近にいた男たちと話し始める。
この距離からは言葉をはっきり聞き取ることはできない。だが彼らの空気がざわりと変化したのを感じた。
高い天井に取り付けられた電球がじんわりと灯る。
宵の光が電球にかき消され、倉庫内や人々がくっきりと姿を現す。
話が終わったのか、新たに入ってきた男が、こちらに向かって歩いてくる。
誰だあいつ。どこかで見たことがある。
遠目からでもわかるほど上質なコートと帽子。威圧感のある体格。
すっきりと伸ばされた背筋。軸のぶれない歩き方。
それだけ見るといかにも上流育ち、といった様子だ。
だが。
「ああ、君が高梨瑠奈か。君、もしかして秋の経営者交流会に来ていなかったかい」
気さくで滑舌の良い話し方の奥に、隠しようのない下品さが滲みだしている。
いや、下品、ではない。
「
そうだ。滲みだしているのは、恐怖心が一瞬薄れるほどの、息が詰まるような穢さだ。
「あの時、私も会場にいたのだがね。君に興味がなかったから声を掛けなかったのだよ」
経営者交流会で彼を見た記憶はない。だが、別の場所で見かけた記憶が頭の中によみがえる。
それと同時に、無数の毛虫が背筋を這うような感触を覚える。
朔夜が変身してしまったあの時。
私の抱擁が変身を止めると知ったあの時。
門番に何かを一方的に言っていた男。
朔夜の伯父だ。
「この体勢は苦しいだろう。まあ、君は朔夜を一人で来させるための単なる駒だから、朔夜が来たら開放してあげるよ」
伯父は張りついたような笑みを浮かべながら、私の顔を覗き込み、顎を掴んだ。
労働を知らない肉厚で柔らかい指が顎に食い込む。そのまま強く引き上げられる。
「なんと貧相で醜い女」
笑みを浮かべた口元が歪む。
「君は朔夜の隣に並んで、不釣り合いだと思わないのかね。あの子は桔梗にそっくりだ。艶やかな
顎を弾くように手を離す。
張りついたような笑みが消え、歪んだ口元に憎悪が宿る。
「せっかく桔梗が美しいというのに。あの男の血の方が、よっぽど『汚れた血』だよ。ねえ、君もそう思わないかい」
最初、何を言いたいのか分からなかった。それでも話を繋げてなんとか理解する。
彼の言う「桔梗」さんという人は、朔夜のお母様なのだろう。そして朔夜は美しい桔梗さんの容姿を受け継いでいる、と。
その流れからすると、「あの男」はお父様か。
そして話しぶりからすると、伯父は桔梗さんの「汚れた血」を蔑む気はなく、むしろ……。
「これから朔夜宛に速達を送るよ。『一人でここへ来るように』とね。もし朔夜が夜半過ぎまでに、
背筋を伸ばし、周囲をぐるりと見回す。
「ここにいる奴らとはね、『夜半過ぎまでは君に危害を加えない』という契約をしているんだよ。だからもし、それまでに朔夜が来なかったら」
頬の毛穴が見えるほどに顔を近づける。
「私はこのまま帰るよ。後のことは、知らない」
一呼吸おいて、にやりと笑う。
だがその「一呼吸」に対して、私の脳が反射的にかっと熱くなった。
こいつ、私が恐怖で震えたり泣いたりするのを期待している。今の「にやり」だって、意図的だ。
顔を上げ、声を張り上げる。
「へえ。じゃあ、もし朔夜が来なかったら、あんた、無意味に夜更かししてゴロツキに金払って終わるってわけだ」
頭の中が大気圧に押されてぱんぱんになったような感覚を覚える。心のどこかが「やめろ」と言っているのに止まらない。
伯父は怪訝そうな顔を向けた。
「あんたさ、今、私が怖がる様子を見た過ぎて、その時の自分の間抜けな姿を忘れていたんじゃない? あーあ、『贅沢』は羨ましいけれど、『無駄遣い』って格好悪いよね」
言いながら、どんどん声が震えていくのがわかる。
どうして私は、歯向かってはいけない状況で歯向かってしまうのだろう。
今まではまだなんとかなった。相手が同じクラスの人や朔夜のお父様だったから。しかし今回は絶対にだめだ。
「ほう」
しかし、伯父の反応は淡白なものだった。
「気が強いね。桔梗は気弱だったから、朔夜は君みたいな子を選んだのかな」
さして関心なさげに背を向ける。
よかった、助かった、と思いながらも、彼の言動に微かな引っ掛かりを覚えた。
この人、朔夜と桔梗さんの区別が曖昧になっていないか。
その後、伯父も他の男たちも、私とは少し距離を取って時間を潰し始めた。
男たちは立ち話をし、伯父は椅子に座って扉の方を見ている。どうやら本当に、私にこれ以上の危害を加える気はないようだった。
しかし、この状況が過酷であることには変わりない。
寒い。十二月の夜、蒸気暖房もない倉庫の中は底冷えする。冷気は分厚いペティコートやコルセットを突き抜けて骨まで侵入してくる。
縛られた体もつらい。動きを封じられ、肩や背骨が悲鳴を上げていた。
そして殴られた後頭部の痛み。
速達は郵便所から気送管を通して各家に届けられるものだが、郵便所まで手紙を持っていく手間などがあるから、それなりに時間がかかる。だから朔夜のもとへ到着するのは……。
いや。
届かなくていい。届いても来なくていい。彼がここに来たところで、悪いことしか起こらないに決まっている。
だったらあの伯父が「無駄遣い」をすればいいんだ。
そう、思ったのに。
弱い心が涙腺を緩ませる。
時間にしてどれほど経った時だろうか。いきなり伯父が鼻を押さえて立ち上がった。
それと当時に男たちが一斉に扉を見る。
低い音を立てて扉が開く。
夜闇を背にした、朔夜の姿が現れる。
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