【十月】ハンターズムーンに手を取り合って
28. 病院にて
夏の間、あんなに威勢の良かった太陽も、十月になるとすっかりおとなしくなった。
共用水道から汲む朝一番の水が冷たい。ぐっと一杯飲むと、体の中が喉から順番に目を覚ましていった。
朔夜に告白され交際を始めたとはいえ、学校生活はほとんど変わらず、日々淡々と過ごしている。
交際のことは紅子にしか話していない。うっかり噂が広まってしまったら、何を言われるかわかったものではないからだ。
そのかわり、休日は今まで以上に特別なものになった。
どちらかの家に行って、昼食を一緒に食べ、勉強をする。紅子いわく「それはデートではない」とのことだが、大好きな人と大好きなことをする、大切な大切な時間なのだ。
長屋に戻ると、ドアのすぐ横からドンという低い音が響いた。それと同時に掌くらいの長さの金属管が郵便受からぽろりと落ちた。
速達が届いたのだ。壁に設置してある気送管郵便受の受取口は、きちんと蓋を閉めていたつもりだったのだが、緩んでいたらしい。
速達管を取り上げる。
何が来たのかは、わかっている。病院からの請求書だ。
明細も同封されている。以前は請求書だけだったのだが、請求額に不自然さを感じた私が病院に抗議をして以来、同封されるようになったのだ。
明細におかしな点がないか確認する。
病院が請求額をごまかすのはよくあることだ。大抵の人は気づかないし、気づいても病院側の対応が怖くて言い出せない。
でも、私は病院の言いなりにはならない。
知識と情報、考える力は、金銭を持たない庶民にとって最大の財産であり、武器なのだ。
お父ちゃん、もうちょっと頑張って。
私が「魔法のエンジン」を完成させて、お金をたくさん稼いだら、チオペンタールを使った最新式の全身麻酔で手術をしてくれる病院に移れるからね。
朔夜との「デート」はいつも昼前くらいからだ。それには理由がある。
朝は掃除と洗濯、そして父の見舞いがあるからだ。
病院の受付で入院費用を払い、長期入院棟へ向かう。
充満する石炭酸の匂いを嗅ぐと、「病院へ来たな」と思う。比較的小綺麗な受付や外来とは違い、長期入院棟は薄暗く、石炭酸の匂いに膿のような臭いが混じる。膨らんでめくれた床板もそのままだ。
二十ほどのベッドが並んだ大部屋の窓際、一番奥に、父がいる。
父はベッドに座って窓の外を眺めていたが、私が近寄ると振り返って笑顔を浮かべた。
「せっかくの休みなのによ。ごめんな、お父ちゃんがこんなんなっちまって。お
「だからさ、お父ちゃん。私、苦労なんかしていないってば。汽罐室のおっちゃんたちも社長も、いい人ばっかしだしさ。仕事の時間も融通利かしてもらってるから、勉強だって、ちゃんとやっているんだよ」
見舞いのたびに父から「ごめん」と言われるのがつらい。でも、下手に「言うな」と言ってしまうと、父が心の中を吐き出せなくなる。
父は俯くと、溶けそうなほど淡い笑みを浮かべた。
自分の手を見ている。今ではすっかり肉が削げ落ちているが、火傷だらけの大きな父の手は、私の自慢の手だ。
読み書き計算が殆どできない父は、若いころから散々騙されたり苦労したりしたらしい。だから娘にはそんな思いをさせたくないと、私を尋常中学まで行かせてくれた。
病弱なのに、稼ぎのいい罐焚き夫として働きながら。
そのおかげで、私は特待生として高等中学で学ぶことができているのだ。
その恩は返す。必ず。絶対に。
病院の帰り道、俯いていた顔を上げ、前を向いた。
大股でずんずん歩く。
そうだ。今日はこれから朔夜の家で彼と会うんだ。前を向いて、笑顔でいよう。
私は恵まれている。
優しい父。親切な職場の人たち。頼りになる友人。
そして、愛しい愛しい人。
だから俯くことなんて、なにもないんだ。
苦労なんて、していないんだ。
歩きながら無意識のうちに呟きが漏れる。
仕事の時にいつも言っている口癖が。
「頑張れ、頑張れ、頑張れ……」
抱きしめた彼の体から少しずつ熱が引いていく。
眠りに入った朔夜を、そっとベッドの上に横たえた。今日は牙が少し生えた程度で変身が治まったので、いつもより彼の負担は少なかったかな、と思う。
タイミングよく、と言うのもあれだが、今日は彼の家で一緒に昼食を摂った後に発熱が始まったので、すぐに抱きしめることができた。
明日が満月なので、もしかしたらこうなるかもしれな、とは思っていた。初めて変身を抑えた時から数えて四回目にもなると、タイミングやコツが少し掴めてきた気がする。
彼が目を覚ました。ひとしきり「ありがとう」「いえいえ」を繰り返したのち、一緒にベッドの上に座ってお喋りをする。
「毎月の変身の症状って、二十歳過ぎくらいまでなんでしょう。これからもずっと今日くらいの変身具合で済めばいいんだけど」
「うん。でも、まだ何年もある。そのたびに瑠奈に熱い思いをさせるわけには」
「いいのいいの平気だよ。これからも、『あ、来るぞ』っていう時は気軽に呼んでね。ぴゅって駆けつけてぎゅうってするから」
ぎゅうっ、と抱きしめる時のジェスチャーをして、微笑みかける。すると朔夜は私の体をそっと引き寄せた。
彼の胸の中に飛び込むような形になる。それに驚くよりも早く、彼の両腕が私を抱きしめた。
ふんわりと柔らかく、優しく、そして強く。
まだ熱の余韻が残る胸、包み込む腕、彼の吐息と、胸の鼓動。
それら全てを認識する。
初めに感じた驚きが、じわじわと熱に変わって体に満ちる。
「朔……」
「瑠奈」
囁く声と吐く息が耳朶を震わせる。
「愛している。だから、俺との抱擁が瑠奈にとって苦痛ばかりなのは耐えられない」
胸が熱い。頬が熱い。包まれている安心感と燃えるような熱がひとつになる。
「苦痛じゃないよ。気にしないで。それにこの『ぎゅう』は熱いけど、とっても、とっても」
そっと彼に腕を回す。
「心地いいよ」
腕に力を込める。今までに何度もしている動きなのに、どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。
そのまましばらく彼に包まれる。
彼が体を離した。私の胸と頬に、彼の余韻が残っている。
その余韻を感じていると、彼の腕が私の方へ伸びた。
目が合う。私の顎を、彼の指がそっと持ち上げる。なんだろうと思っていると、彼の顔が近づいてきた。
「瑠奈」
近い近い顔が近いよ、と思っていると、背後からドアをノックする音がした。
「おそれいります朔夜様。おかげんはいかがでしょうか」
麻田さんだ。部屋に入ってくる気配がないので、私が走ってドアを開ける。
「ちょっと前に治まりましたよ。今回は軽かったみたいです」
「さようでございますか。あの、おそれい」
麻田さんは何かを話しかけて言葉を切り、朔夜の方を見て急に怯えたような表情を浮かべた。
「おっ、おそらく無粋な真似をしてしまい、大変申し訳ないことでございますっ!」
ものすごい勢いで直角以上の角度に頭を下げる。朔夜を見ると、両手で顔を覆って大きな溜息をついていた。
「おそれいります麻田さん。どうかされたんですか」
何を謝っているのか見当がつかないが、これでは麻田さんの用事が終わらない。私が顔を覗き込むと、彼はおずおずと顔を上げた。
「お邪魔をしてしまい恐縮に存じますが、旦那様よりご伝言です」
私を一度見て言いよどみ、言葉を続ける。
「朔夜様の交際相手である高梨様と、一度話がしたいそうなのです。つきましては今夜、母屋で夕食を共にしませんか、と」
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