42. 長夜月の対決(2)
狼と目が合う同時に、前方から鈍い音が響く。朔夜と灰色の狼がぶつかり合ったようだった。視線を前方に戻すと、灰色の狼が再度飛びかかってきたのを朔夜がかわしていた。
伯父は一歩引いたところで機を窺っているように見える。私が前方に気を取られている隙に、背後の狼がスカートに嚙みついた。
そのまま強く引っ張られる。脚に力を入れて踏ん張ると、スカートの一部が嫌な音を立てて破れた。
「ちっ」
狼はスカートを離して舌打ちした。次の瞬間、ぬるりと裸の男の姿に変身する。思わず目を逸らした瞬間に、背後から羽交い絞めにされた。
「ちょっと! 何すんのよっ」
「お前は俺らで回収して売るからな。下手に噛んで傷つけられねえからよ」
耳元で囁く。男の口から腐った魚のような臭いが漂った。不快感と恐怖が背骨を駆け上がる。なんとか動こうとするが、肩を押さえられてうまく身を捩れない。
『瑠奈!』
伝声管から響く音楽のように割れた声で朔夜が叫ぶ。そこへ灰色の狼が朔夜を襲った。なんとか噛みつかれることは避けられたが、顔面にダメージを受けたようだった。
怖い。怖い。
叫び声が喉元までせり上がる。
でも今、私が叫べば、朔夜に隙ができてしまう。
男は私を引きずるようにして後ずさりをする。これでは蹴りもできない。それでももがいていると、男の腕が目の前に来たので、思いきり嚙みついた。
狼に比べれば弱い私の噛みつきでも、多少の効果はあったようだ。男が腕の力を緩める。そこで思いきり体をひねって腕から離れ、その勢いで男の横面を拳で殴りつけた。
身長差のせいで全力は出せなかった。けれども私の肩と腕は、思っていたよりも遥かに強靭だったらしい。男は頬に私の拳をめり込ませ、何歩かよろめいた後に倒れこんだ。
男が起き上がってきたら怖い。嫌だ。その思いのままに腹を蹴り上げる。
鉄板入りの作業靴が腹の感触を捕らえる。男が叫び声を上げながら私を睨んだ。
腕を伸ばしてくる。それをかわそうと後ずさった拍子に、ペティコートの裾が踵に引っ掛かった。
ぐらり、と体が傾く。
そのまま尻もちをついて倒れる。
「兄様、お待たせ!」
そこへ金色の狼になった望夢君が飛び込んできた。
望夢君は朔夜のそばを素通りして私の所に駆け寄り、私へと伸ばされていた男の腕に嚙みついた。
牙を突き立てられた男は絶叫し、その拍子になぜか噛まれた腕だけ狼の体毛が浮かび上がった。
「ねえさまは外へ出て。今、外には平山と麻田がいるから安心だよ」
「で、でも」
「ねえさまがここにいると邪魔なんだよね」
鋭い口調でそう言うと、朔夜の方へ体を向けた。
「ねえさまがいると、兄様は自分とねえさまの両方を守らないといけなくなる。だからおとなしく外へ出てくれるのが、兄様のためなんだよ」
きつい言い方にたじろいだが、反論できない。私は頷き、片腕だけ変身して悶絶する男の脇腹に、もう一発蹴りを食らわせ、スカートを掴んで出口に向かって駆けだした。
伯父の黒い巨体が迫ってくる。あっという間に追いつかれる。脚がすくむ。牙を剥かれる。
ふっと力が抜けそうになった時、朔夜が伯父に飛びかかった。
朔夜と伯父がもつれ合って横転する。逃げることをためらう脳と恐怖にすくむ脚を叱咤しながらなんとか扉を開ける。
そこへ伯父が襲ってきたので、鼻先で思いきり扉を閉めた。
ひゅう、と一月の夜風が鼻をかすめる。
夜なのに、淡い光が満ちている。空を見上げると、
「高梨様」
声のする方を見ると、麻田さんが男を縄のようなもので縛り上げていた。
「お怪我はございませんか」
言葉遣いは丁寧だが、やはり疲れているのだろう。声が苦しそうだ。
男を縛り終え、転がす。倉庫前の広いスペースには、七、八人が縛られて転がっていた。
「はい、大丈夫です。ありがとうございます。……で、えっと、これは」
「ああ、彼らですか。先程の
「えっ、と、麻田さんが、これ全部」
「いえいえ。望夢様や平山と力を合わせて、ですよ」
麻田さんが顔を向けた方を見ると、倉庫のすぐそばに停めた大型の自動車から、平山さんが降りてきた。
「麻田さん。ご指示通りすぐ走れるようにしておきました。満水にしてありますので、当分はこのままで大丈夫だと思います」
「ありがとう。その自動車は旧式ですから、そうしておかないとなかなか動かないのですよ」
無人の自動車は低い唸り声を上げながら、白い蒸気を夜空に向かって吐いている。平山さんは小走りで私の所へ来た。
「ああ、ご無事でしたか」
少しだけ笑みを見せた後、ぐにゃりと顔を歪めて泣き出しそうな表情になる。
「望夢さんは、ご無事でしたか。怪我は」
拳を握り、扉を見つめる。
「怪我とかはしていませんでした」
「そう……ですか」
唇を噛み、俯く。
「助けに入ってはいけないと言われました。人狼の争いに入るのは危険だと。私を守りきれないと。私は……」
肩を震わせる平山さんの背中に、そっと手を置く。
多分、今、私たちは同じ気持ちだ。
平山さんから、私が誘拐された後のことを簡単に聞いた。
私が誘拐されたことなどは、速達で脅迫状が届く前にある程度わかっていたのだそうだ。
伝えたのは門番だ。彼は伯父に半ば脅されるような形で買収されていたらしいのだが、良心の呵責に耐えかねて報告しに来たらしい。
そこで門番のお仕着せを借りるなどの様々な匂い対策をした上で、流しの馬車をつかまえ、麻田さんと望夢君が先に向かった。いきなり鴻家の自動車で乗り込むと、エンジン音で気づかれるからだ。
その時、望夢君は狼姿だった。だが「鴻家自慢の特別な犬」ということで押し切ったのだそうだ。
その後、平山さんは大型自動車手配などの用事を済ませて、敢えて遅れてここへ来たのだという。
「あいつは朔夜様が未だに、孤独でか弱い子供だと思っていたのでしょう」
平山さんは倉庫を睨んだ。
「私は十五年前の事件を見たわけではありません。それでも、朔夜様が十五年前と違うことくらいわかります。それは勿論、体が大きくなったことだけではありません」
低い声が夜風に乗って響く。
「今の朔夜様には仲間と、信頼できる弟と、守るべき愛する人がいます。だから全てを持っているようで何も持っていないあいつに、負けるわけがないのです」
その時、ガシャンと何かが割れる音が響いた。
倉庫を見上げる。高い位置にある窓のガラスが割れ、蒸気を吐く自動車の上に降り注ぐ。窓の木枠が外れ、自動車の端にぶつかって落ちる。その窓から二匹の狼の首が突き出した。
「朔夜……」
叫びそうになって、慌てて口を押さえる。朔夜の上に伯父がのしかかるような体勢だ。
伯父が朔夜に噛みつく。割れたような声の絶叫が空気を切り裂く。倉庫へと駆け出した私を、平山さんが強く押さえた。
黒い牙を剝きだした伯父が叫ぶ。
「桔梗、どうして逃げるんだ。どうして私に歯向かうんだ。あの男は桔梗を愛してなどいない。それなのに、どうしてそんな目を向ける。お前なんか、お前なんか、手に入らないなら、私の手でいっそ、私が、私が」
朔夜がもがき、体勢が崩れる。倉庫の中から、「兄様!」という望夢君の微かな声が聞こえる。
朔夜は白い息を吐きながら、割れた声を張り上げる。
『母はいない。俺は母じゃない。今のあんたは、いない人に手を伸ばし、罪を犯し』
朔夜の体が押されて落ちそうになる。
『得られたはずのもの全てを手放した、ただの老いた狼だ』
窓から出た体を大きくひねる。
朔夜にのしかかっていた伯父の体がぐらりと傾く。
そのまま体が飛び出し、外へと放り出される。
黒い塊となって落下する。
激しい音を立てて自動車の上に墜ちる。
次の瞬間、耳を破壊するような音とともにボイラーが爆発し、自動車は蒸気と炎に包まれた。
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