41. 長夜月の対決(1)
普段の麻田さんからは想像もつかないような佇まいに、一瞬息が止まる。
腰を落とした独特の構え、手慣れた様子で振り回す鉄パイプ、そしてあたりを
それは、男子が体操の授業で習う武術とは全く異なる。
それは……。
「麻田!」
私の背後で朔夜が叫ぶ。手首の束縛がほどけ、体の束縛も緩みだした。
「この三人以外を任せる!」
「かしこまりました」
朔夜の声に、伯父と鳥打帽二人が顔を上げた。朔夜の言う「この三人」とは彼らのことらしい。
鳥打帽の一人が何かを言いかけた所に、朔夜の低い声が被さる。
「人間を外に出した後、同族同士で話し合おうじゃないか」
体を丸めた伯父が視線をこちらに向ける。鳥打帽たちは朔夜を睨むと、背後の麻田さんたちをちらりと見た。
伯父と違い、彼らは今、私や朔夜になんらかの行動を起こせる状態のはずだ。しかし背後と伯父、朔夜の間で視線を動かすばかりで、自分が取るべき行動を決めかねているようだ。
扉の近くにいた、もう一人の男が麻田さんに突っかかる。二言、三言、言葉を交わしていたかと思うと、いきなり麻田さんが鉄パイプを振りかぶった。
男が唸り声を上げて倒れこむ。手にしていた刃物が、カツン、と間が抜けた音を立てて手元から転がり落ちた。
「おそれいります」
麻田さんが隣にいる金色の狼に向かって話しかけた。
「私はこの男を外に運びます。大変申し訳なく存じますが、あそこのを運んでいただけませんでしょうか」
すると狼は顔を上げて甲高い声を発した。
「ええー。僕を使おうっていうの。面倒だなあ」
その声は、望夢君のものだった。
ぶうぶう不平を言う感じも彼そのものだ。狼は男の服を咥えて引きずろうとしたが、うまくいかなかったらしく、ため息をついて私の方に顔を向けた。
「兄様、ストール貸して」
背後の朔夜が腕を動かすと、小さな包みが狼の足元に落ちた。
狼がそれを咥えて頭を振る。包みの中から夜空色のストールがふわりと広がり、狼を包み込んだ。
それとほぼ同時に、金色の狼はぬるりと姿を消し、ストールを被った望夢君の姿に置き換わる。
視覚で受け止めた変身の過程を、脳が処理するよりも早く、あっけなく。
そこでようやく頭が追いつく。
金色の狼は、望夢君だ。
そして人狼族の変身とは、こんなにも簡単にできるものなのだ。
束縛がほどける。椅子から立ち上がるが、肩やお尻が痺れて痛い。よろける私を、朔夜が支えてくれた。
伯父が立ち上がった。私に向かってこようとしたのを、朔夜が前に出て止める。
「俺がなんの策もないまま『あなたの言いなりに監禁されますから、彼女を解放してください』と言って、ここへ来ると思っていたのか。そして俺を
伯父は一瞬たじろいだような様子を見せたが、すぐに口の端を歪めて笑った。
「何を言っているんだい。朔夜がちゃんと来れば、本当に彼女を帰すつもりだったよ、私はね。彼らとの契約でも、夜半過ぎまでは危害を加えないように、と言ってある。夜半過ぎまでは、ね」
もったいぶった言い回しをされて、ようやく気づく。
背筋に冷たい氷が伝う。
私はとんだお人好しだ。これだけのことをされたというのに、伯父の言葉をそのまま信じてしまっていた。
考えてみれば当然のことだ。私は鴻家の人間ではないから、「鴻家の恥」を隠す必要がない。そのうえ経営者交流会に顔を出している。
そんな私を、新総帥という脆い地盤に立つ彼が、直接手を下さないにせよ無傷で野に放つわけがないのだ。
「でもまあ、ちょっと誤算があって困ったのは認めるよ。まさか鴻家の長男の世話係が、あんな下品な
その言葉を聞き、朔夜が拳を握りしめる。
「麻田は破落戸じゃない。俺の執事であり、父親代わりであり、命の恩人だ」
握った拳が震えている。彼の背に触れると、びりっと痺れるほどの熱を帯びていた。
「十五年前、あんたの隠れ家から逃げ出したとき、俺に手を差し伸べ、介抱してくれたのが麻田なんだ。あんたごときが『下品』と言っていいような人じゃない」
熱は触れなくてもわかるほど高くなっている。話しながら上着を脱ぎ、シャツのボタンに手を掛ける。
変身の兆候だ。止めなきゃ、と体に腕を回そうとしたら、そっと手を払われた。
背骨がぱきぱきと乾いた音を立てている。私は一歩、後ろに下がった。
今、彼は、自らの意思で変身しようとしている。
「俺はずっとあんたが怖かった。十五年前のあの日から、父の会社を奪われた今の今まで、文句すら言えなかった。今だって怖い。でも、あんたは一番やってはいけないことをした」
呼吸音が大きくなる。
めりめりという小さな音と共に牙が生える。
指が縮み、銀色の毛がびっしりと浮かび上がる
「瑠奈を、俺の大切な人を
朔夜の気迫に気圧されたのか、伯父は何歩か後ずさった。
後ずさりながらも震える手でコートを脱ぎ、口を開く。
「な、なにを偉そうに。こんな醜い女一人のために、私に楯突くとは。もういいもういい。契約変更だ」
朔夜を指さし、声を裏返らせて叫ぶ。
「この小僧を
叫び声と共に、今まで動きの鈍かった鳥打帽たちが、急に目を光らせた。
一人が上着を脱ぎ捨て、口角を吊り上げる。
「あざっす! その言葉を待ってました」
吊り上がった口元から牙が覗く。
引きちぎるようにシャツを脱ぐそばから、灰色の毛が浮かび上がる。
朔夜がかがみ込む。
体がうねるように変形する。
私はうずくまり、目を閉じた。
熱風が埃を巻き上げ、頬を叩く。
目を開ける。
私を守るように立つ、銀色の大きな狼。
そして対峙するのは、黒色と灰色の二匹の狼。
黒い狼が伯父の声を発した。
「さすが、桔梗の血を受け継いでいるだけあって美しいね。その姿を見られるのが今夜で最後とは名残惜しい」
そう言いながらじりじりと後退する。
「やってしまえ!」
伯父の号令と共に灰色の狼が跳びかかる。
すんでのところで朔夜が避ける。体勢を立て直し、互いに隙を狙っている。
今、私はどう動いたらいいのか、思考を巡らせる。だが頭がうまく動かない。足がすくむ。なんとか、なんとか後ずさりする。
柔らかく、生温かいものにぶつかる。
振り返る。
「おっと、自分だけ逃げるつもりかな」
もう一匹の狼が、そう言って白い息を吐いた。
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