43. 朝の光

 柔らかなあたたかさに包まれて目が覚める。

 

 早朝の淡く蒼い光が室内に満ちている。私の腕の中で眠る朔夜は、額に痛々しい包帯を巻いた姿で、微かな寝息を立てている。

 穏やかな顔だ。もう抱きしめ続けなくても大丈夫だろうか。あとはゆっくり眠って、昨夜ゆうべの変身や争いで疲弊した体を休めてほしい。


 蒼い光を受けた朔夜の寝顔を見つめる。

 すんなりと伸びた長い睫毛が僅かに動いた。起きるのかな、と思ったが、すう、と大きめの寝息を立てた後、寝返りを打つ。その動きに合わせて自分の腕を外し、起こさないようにベッドから降りた。


 私は今、白いナイトドレスを着ている。「消耗しきった朔夜の回復を早めるため、夜通し抱擁する」と麻田さんに伝えたら、以前お屋敷にいた使用人が着ていたものを貸してくれたのだ。

 胸元に施された花の刺繡が可愛らしい。元の持ち主は、きっとこの刺繍みたいに可愛らしい人だったんだろうな、と思う。

 裸足のまま、その場でくるりと回ってみる。ドレスが踊るようにふうわりと揺れる。

 まるで、社交界デビューする人デビュタントが着る白いドレスのように。


 動きを止める。

 西側にある窓の外を見る。

 昨夜、私たちを見守っていた十二月の満月コールドムーンは、白い光を放ちながら空の端で私を見つめていた。


 ああ、もうすぐ終わるのだ、と思う。




 昨夜。

 伯父が激突した大型自動車は、その衝撃で爆発を起こした。

 麻田さんによれば、爆発の原因は衝撃以外にも、自動車が旧式であったことや、業者のメンテナンス不足にもあったのだろう、とのことだった。そのあたりは専門家でないとわからない。


 ただ、その爆発によって、伯父は命を落とした。

 狼の姿で命を落とした人狼族は、人間に戻らない。だから自動車から発見されたのは狼の亡骸なきがらであり、「伯父」ではない。

 経済界の新しい覇者として君臨するはずだった人は、その夜、世界から「消えた」。


 爆発の時、伯父が落下した窓を見上げると、朔夜の姿がなかった。

 まさか、伯父と一緒に落ちたのか。恐怖よりも早く駆け出す。三人で倉庫の扉を開けると、目の前にシャツだけを羽織った男が現れた。

 男はおぼつかない足取りで二、三歩歩くと、その場でゆっくりと崩れ落ちた。


「望夢さん!」


 平山さんが駆けていった先には、狼姿の望夢君がいた。

 荒い息をする口元は赤黒く汚れている。よく見ると前足を怪我しているようだった。

 平山さんが望夢君のもとでかがみ込む。

 望夢君は金色の体を震わせ、平山さんに体を預けるように伏せた。


「平山……痛いよう。怖かったよう。ひらやまあ……」


 何度も何度も平山さんの名前を呼び、嗚咽する。その体を平山さんは強く抱きしめた。


「高梨様。おそれいります」


 麻田さんが指さした方を見る。そこには半開きの鉄製のドアがあった。ドア周辺の床は、絵具を紙でこすったような赤黒い汚れがついている。


 心臓が、どろりと嫌な音を立てる。


 ドアの向こうには階段があった。灯りのない中、階段を駆け上がる。ダンダンという私たちの足音が響く。

 いくつかの踊り場を超えた後、開け放たれた扉の先へと飛び込んだ。


 月明かりが差し込む、広い部屋。

 長い間使われていないのか、室内は埃っぽく、何も入っていない棚と事務机だけがぽつんと打ち捨てられている。

 冷たい風が頬に触れる。

 その先に。


「朔夜!」


 壊れた窓のそばに、うつぶせになって倒れている、人間の姿をした朔夜がいた。


 麻田さんが駆け寄り、懐から夜空色のストールを取り出して朔夜に掛ける。私がそばに屈みこむと、彼はゆっくりと顔をこちらに向け、微かに笑みを浮かべた。


「瑠奈」


 額に広がる柘榴のような傷から血が滴っている。私が抱き上げ、膝の上に頭を乗せると、彼はそのまま糸が切れたように気を失った。




 その後、私たちは伯父のものらしき自動車で帰った。

 道中、麻田さんと平山さんから様々なことを聞いた。


 門番が、朔夜の両親に今回の件を話しているであろうこと。

 平山さんが私の工場に欠勤届を送ってくれたこと。

 そして麻田さんの過去。


「私は若い頃、港湾で日銭を稼いで家族を養っていました。ですが流行り病で女房と娘を失ってからは、その、まあ、かなり荒れまして」


 ふっ、と息を吐く。


「そうしますとあとはもう、蟻地獄です。どんなにもがいてやり直そうとしても、どこかしらで誰かが私の噂を聞きつけてきて、喧嘩を吹っかけてくる。そのような毎日でしたから、私はこのまま砂の底に沈みながら地獄の主に食われ、命を失った後も天国にいる女房や娘に会えないのだろうと思っておりました。そのような時、主人と出会ったのです」


 自動車が止まった。横断する荷馬車が通り過ぎるのを待つ。麻田さんは運転席から振り返り、私の膝の上で目を閉じる朔夜を見つめた。


「主人はぼろぼろに汚れ、傷だらけの姿で路地裏を歩いておりました。そのため急いで連れ帰り、介抱したのです。そうしましたら主人はなぜか私に心を開いてくださいましてね。引き続きお世話をさせていただくことになり、今に至ります」


 自動車は再び走り出す。気がつくと既にお屋敷が見える場所まで来ていた。

 麻田さんの声が低くなる。


「私は人として当然のことをしただけです。それなのに、主人は私を蟻地獄から救い出してくださいました。私は主人のためでしたらなんでもいたします。日常のお世話は勿論、荒事でも、裏工作でも、主人の幸せのためでしたら、なんでも」




 ベッドから「ううん」という朔弥の声が聞こえる。私は昨夜の思い出から現実に戻り、今、自分がどのような格好をしているのかに気づいた。


 しまった。薄いナイトドレス一枚だ。コルセットも着けていない。まずい。羽織るものはどこだ――。


「瑠奈」

「ぎょええっ」


 今の声は一体どこから出たのだろう。自分でも驚くくらいよく通る声で叫んだあと振り返った。

 朔夜が少し驚いたような顔をして、ゆっくりと上体を起こす。


 部屋に満ちた蒼い光が、乳白色の輝きの中に溶けていく。


「ご、ごめんなさい。おはよう、朔夜」

「うん」


 水晶のような笑みを浮かべる。


「おはよう、瑠奈」


 その声があまりに優しくて、胸が苦しくなる。


「朔夜、具合はどうかな。起き上がって大丈夫なの。傷は痛いかな。助けてくれてありがとう。捕まってしまってごめんなさい――」


 苦しい胸から言葉があふれ出す。

 どの言葉も一番に伝えたくて、それなのに口は一つしかなくて、どうしたらいいのかわからない。


「瑠奈」


 混乱する私の手を、そっと握る。

 柔らかなはずの彼の掌は、昨夜の乱闘で擦り傷だらけになっていた。


「具合はどう? 怪我とかはないかな」


 勢いよく何度も頷く。


「ごめん。俺の家のことに巻き込んでしまって」

「そんな。悪いのは伯父さんでしょ。麻田さんから少し聞いたよ。あいつとんでもない奴じゃない」


 朔夜は以前、三歳の頃に何があったのかをあまり話したがらなかった。だから伯父とのやりとりや麻田さんから聞いたことを話すのはどうかとも思ったが、このようなことがあった以上、ごまかすことはできない。

 朔夜は少し俯き、低い声で訊いた。


「俺と伯父が争った時、伯父は窓の外に姿を消して、その直後に爆発音が聞こえたんだ。……あの時、伯父は、どうなったの」


 その問いにどう答えたらいいのか考える。


「えっと、あの時、勢いあまっていたのかな、窓の外に飛び出したの。そうしたら丁度その真下に、ボイラーが温まり切った自動車があったんだ。その自動車、古くて状態が良くなかったせいなのか、伯父さんがぶつかったら爆破事故を起こして。それで、伯父さんは狼の姿のまま爆発に巻き込まれて、そのまま」


 なるべく、朔夜が「自分と争ったせいで伯父が命を落とした」と思わないよう、言い回しに気をつけてみる。


 朔夜が俯いたまま唇を噛んだ。

 私の手を握った、彼の手に力が入る。

 彼の心を包むように、そっと手を重ねる。


 乳白色の輝きが室内に溢れ、彼の髪に光の輪を落とす。

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