30. 食卓の戦い(2)
――テーブルを飾る時は、ゲストへのおもてなしの気持ちを込めて。
確か礼法の先生がそう言っていた。
では、この空間は一体なんなんだ。
ルールに則って美しく整えられていながら、細かなところに余計な意図を潜ませたテーブル。何かに似ているなあと思っていたのだが、今、気づいた。
単なる雑談をしているように見せかけながら、私以外には聞こえないように、こそこそと悪意ある言葉を囁いてくるクラスメイト。あれに似ているのだ。
私が囁きに気づき、嫌そうなそぶりをしたら面白い。気づかずに呑気に過ごしていたら、それはそれで面白い。
だけど、先生や私を悪く思っていない人に注意されるのは嫌だから、面と向かって暴言を吐くことはない。
勿論、お父様がクラスメイトと同じ理由でテーブルを飾ったかどうかはわからない。
先程私がお父様に話した通りの意図かもしれない。
私が「長男の交際相手」としてふさわしいか、知識量や対応力を試しているのかもしれない。
「庶民だから、使い慣れた軽いアルミニウムのカトラリーの方が楽だろう」と、わざわざ気遣ってくれた、なんていう考え方もある。
なんにせよ今、一つだけ言える確実なことがある。それは。
ご飯は楽しく食べたいよ。
食事が運ばれてきた。
美味しそうな香りを漂わせた料理の数々が給仕される。どれも美しく、心を込めて丁寧に作られたものであることは一目瞭然だ。
しかし。
ぽってりと粘度が高いポタージュ。
殻付きのオマールエビに骨付きの牛肉。
どれも食べ方はわかる。しかし、豆以外は食べたことがない。
ポタージュは絹のように滑らかな食感で、茸の奥深い香りが優しく辺りに広がる。しかし教科書通りに口の中に流れ込まない。
なんとか飲もうとすると、ずるっと大きなすする音がする。
「望夢。最近、勉強の方はどうかね」
お父様は穏やかに望夢君と話しながら、ちらちらと私を見ている。そして私が音を立てたりナイフをごりごり動かすと、「うわあ」と呟いて口の端を歪める。
その様子は、とても楽しそうだ。
私の悪口を言うクラスメイトのように。
俯く。鼻の奥がつんと痛くなる。
「高梨さん」
お父様の話が途切れた時、小さな細い声がした。
顔を上げる。お母様が私に向かって微笑みかけていた。
「お話ししましょう。私、高梨さんとお話しするのを、とても楽しみにしていたのよ」
その笑顔はまさに、初春のぬくもりのようだ。
儚く小さいけれども、凍えた体に染み渡る。
「高梨さんみたいにかわいらしい子が来てくださって、よかったわ。朔夜さん、人見知りの恥ずかしがり屋さんだから、ちゃんと女の子とおつきあいできるか心配でしたの」
おそらくお母様は、純粋に私を歓迎してくれ、朔夜を心配していたのだろう。
でも私は「人見知りの恥ずかしがり屋さん」が妙に心に刺さってしまい、思わず「ぶおっ」という変な笑い声をあげてしまった。肉が口に入っていたのに。
「瑠奈、何笑っているんだよ」
「だってえ。ぷぷ、『恥ずかしがり屋さん』かあ。そうかも。クラスの大半の女子は『クール』と思っているんだろうにねえ」
うっかり普段の口調になってしまった。慌てて口を閉じたがもう遅い。お父様を見ると、私のことを地虫でも見るかのような目で睨んでいた。
「ええっ、兄様、学校では『クール』扱いなんだあ。おもしろーい。変なのー」
望夢君が身を乗り出すようにして、いきいきと話に乗ってくる。つい先ほどまでとは顔つきが全然違う。
本当は、クールと思われる理由は、「恥ずかしがり屋さん」との混同だけではない、と思う。
あの、いつも纏っている、ひりひりと冷たい空気のせいだ。
おそらく、深い孤独感が生み出した空気。
でも、それは言わない。今の彼は孤独ではないからだ。
交流自体は少なくても、お母様はきちんと朔夜を見ている。望夢君はこの調子だ。それに私だっている。
「な、なんだよ、皆で好きなように言ってくれるなあ」
朔夜は冗談めかした様子で頬を膨らませ、微笑んだ。
お父様に目を向けた後、お母様と望夢君を見る。
「まあいい。食事の席は皆で楽しく過ごすことが一番だ。私はそのための話題作り役になった、ということで」
微笑み続ける。
微笑みながら、びりびりと鋭い空気を放つ。
「お父様。この度は高梨さんのために、このような楽しい席を設けて下さり、ありがとうございます」
お母様と望夢君の顔から笑顔が消え失せた。二人とも怯えたように動きを止める。
朔夜の顔からも笑顔が少しずつ消えていく。
テーブルに置かれた彼の手を見る。軽く握られたその手は震えていた。
「私は彼女を尊重し、誠意を持った交際をしたいと考えております。そのため」
手の震えが止まる。
お父様を見据える。
「ここまで育てていただいたにもかかわらず、大変申し訳ないことでございますが、今後、予備という立場から身を引かせていただきたく存じます」
ゆっくりと頭を下げる。
お父様はカトラリーを置き、朔夜を睨み返した。
またあの話題だ。一体どういうことなのだろう。
「それは彼女のためか。こんな、口ばかり達者な、ろくに作法も身についていないような、石炭臭い薄汚れた罐焚き女の」
「罐焚きの方がいなければ工場も船も動きません。そうしたら私たちは暮らしていけなくなります。私の大切な人をそのように言わないでいただけますか」
朔夜の額に汗が滲んでいる。今までの彼の様子からして、お父様にこのような態度を取るのは初めてなのだろう。
お父様の顔が赤くなる。口を開いて何かを言おうとする。
しかし何も言わず、いきなり乱暴に立ち上がった。
そしてなんと無言のままさっさと部屋を出て行ってしまったのだ。
ばたん、とドアの閉まる音がしたとき、私は一つ学んだ。
「ぽかーん」というのは、このような状態を指すのだ、と。
まさかこんなことになるとは。
私のせいだろうか、と謝りかけると、三人にそろって「しいっ」と言われてしまった。
三人とも両耳に手を添え、ドアを見ている。しばらくすると、皆から大きなため息が漏れた。
「もう大丈夫よ。お話しても聞こえないわ」
お母様の言葉で初めて気づいた。
そうだ。人間同士の会話とは聞こえ方が違うのだ。
「高梨さん、ごめんなさい。嫌な気持ちになったでしょう。主人がこういうことをするかもしれないと思っていたのに、助けられなかった」
私が恐縮して首をぶるぶる横に振っていると、朔夜が声を上げた。
「瑠奈、ごめん。俺が臆病なせいで、なかなか声を上げられなかった」
「そんなそんな全然全然。それよりさ、お父様、私に何がしたかったんだろう。こう言うのも失礼かもしれないけれど」
お父様がいなくなり、頭が冷静になると、改めて疑問が湧きあがる。私が首をかしげていると、お母様が呟くような声で言った。
「私も嫁入りした時、義母に同じようなことをされたわ」
初春の夜のような冷たい声。
「実家の会社が借金を抱えていたこともあって、私は礼法を学んだことがないの。それを知った上で、こういった席で無作法を
初耳なのか、望夢が驚いたように身を乗り出す。
「主人は今、仕事の重大な問題が解決できないで苦しんでいるの。だからおそらく、自分の母親と同じように、『自分より下』と思っている人を蔑んで、心の均衡を保とうとしたのよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます