第参骨 薔薇の木の下⑦

    ■伍


「本当に、主人が殺されたというなら、お話ししてください。それが真実なら、私には知る権利が──いえ、私は知らなければならないことだと思いますわ」

 薔子さんがそう言って神父に詰め寄った。

「どんな事でも、受け止めます。だから、おつしやって」

「……言えません」

 視線を下に落とし、神父が首を振る。

「どうして!」

「それも言えません」

 薔子さんが自分の胸元でこぶしをぎゅっと握り、もう一度、今度はつぶやくように「どうして……」とかすれた声で言った。今にも泣きそうな声で。神父はそれでもかたくなだった。

「待って下さい、もし本当に大原さんが犯人なら、貴方は、犯人ぞう……ええと……」

「犯人蔵匿及び証拠隠滅罪だ」

「ああ、そうです、犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪に問われるはずです。これも十分犯罪ですよ」

 我慢出来ずに立ち上がったものの、途中で言葉に詰まった僕に、櫻子さんが助け船を出してくれた。犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪は、要するに犯人を知っているのに黙っていたり、かくまったりしてかばったり、証拠品を駄目にしてしまう事で処される罪だ。

「聖職者の貴方が、そんな犯罪行為の手助けをしていいんですか!?」

「私はけして、犯罪者を庇っているわけではありません!」

 思わず声が大きくなった僕に、更に大きな声で神父が反論してきた。

「だったら、どうして言えないんですか!? 警察に言えば良いじゃ無いですか!」

「それが出来たら苦労してないんだよ」

 そう答えたのは、驚いた事に神父ではなく、水木さんだった。

「え……?」

「それが出来ないから、私達は困ってるんだ」

「私『達』? それって、どういう──」

 きょとんとする僕をいちべつし、神父が深呼吸を一つした。

「……本当に、後悔されませんか?」

「ええ、後悔したとしても、貴方を責めはしないでしょう」

「私は責められるのが怖いのではありません。ただ……貴方を苦しめるのが嫌だったんです……」

 最初は話したくないと言っていた神父も、薔子夫人との押し問答の末、結局はあきらめたように顔を上げて、空いた大原さんの席に腰を下ろした。

「聞いたところで、貴方あなたは救われないと思います。それでも良いのですか?」

「でも、今のままでは、私はもっと苦しむでしょう」

「貴方をだましたかった訳では無いんです、ただ、貴方の為を思って黙っていたことを、どうか理解して下さい」

 そう言って、霊媒師──いや、神父が先ほどまでかぶっていたフードを下ろすと、確かに霊媒師と言うよりも、どこか誠実そうな神の僕という雰囲気があった。もつとも、櫻子さんに言わせれば、宗教家も詐欺師も紙一重って奴だろうけど。

「……どこから話せば良いでしょうかね」

「主人はマンションで死んだはずです、貴方はその場にいたんですか?」

「……いいえ、違います」

 覚悟を決めるように、神父がもう一度、深く息を吐いた。

「でも、ビデオがあります」

「ビデオ?」

「殺害現場を録画した映像があるんです」

「どうしてそれを公表しないんですか!?」

 思わず僕は声を荒げてしまった。

「──それを公表するのは、必ずしも正しいこととは言えないからです」

「主人を殺した人を庇うつもりなの?」

「いいえ、そういう訳ではありません。けれど、このビデオはけして公表すべきではないんです」

「……ごめんなさい、よく、わからないわ……?」

 頭痛をこらえるように額を押さえながら、薔子さんが言った。

「ヨーク神父……」

 水木さんと小橋さんもためいきをつき、水木さんは神父の肩に、そっと気遣うように触れた。

「どんな事でも構いません、全て話してくださいませんか? これで納得しろだなんて無理だと思います」

「だけど、貴方には聞いて欲しくない話なんだ」

 神父の代わりに、水木さんが答えた。

「何故ですか?」

「明人さんはそれを望んでいないんだよ。ずっと貴方に隠していた事なんだ」

「そうです。これは、明人さんの為でもあるんです」

 神父が、苦々しげにかすれ声を絞り出した。

「──成る程、薔薇ばらの下、か」

 不意に櫻子さんが、しりがりの口笛を吹いたかと思うと、そう呟いた。

「今、私の中でつながったよ。要するにこれは、不格好なふくしゆうげきだったわけだ」

「櫻子さん?」

「神父に、水木氏と小橋氏と言ったか?……貴方達は共犯者だったわけだね、今夜の茶番の──理由はあの男に復讐する為か」

「いいえ、自首をさせる為です」

 神父がまるでムキになったように、強く否定した。

「そうかな?」

「私は復讐なんて!」

「──もういいんじゃないですか?」

 不意に、それまで黙っていた小橋さんが声を上げた。舞台で鍛え上げた発声で、その声は低く、はっきりと、サロンに響き渡って、僕らはみんな思わず会話を中断した。

「もう全て話したらどうですかね。千代田さんは望んでないでしょうがねぇ……私は薔子さんには、全部聞く権利があると思いますよ」

 シーンと全員の視線が集まる中、彼はまたおどおどと視線を落とし、弱々しい声で言うと、水木さんと神父が顔を見合わせた。どうやら本当の小橋さんという人は、こんな風に静かな人らしいと、僕は気がついた。舞台の上でこそ姿を変える、根っからの演劇人なんだろう。

「たとえ台本通りに行かなくたって、必ず幕は閉じなきゃあいけない。お二人はアドリブが随分下手でしたね。今更話せないなんて言われたって、千代田夫人は納得出来る筈が無いでしょう。全部話して……後のことは、そこから考えたらいいじゃないですか」

 小橋さんの声は、小さくてもはっきり通る。水木さんと神父は静かに顔を見合わせ、やがて諦めたように、また神父が語り始めた。

「私が明人さんに初めてお会いしたのは、教会の罪のゆるしを請う場、告解室でした。彼は少し酔っていたようです。酔って、ふと誰かに話を聞いて欲しくなったんでしょう。彼は告解室で、長年抱えていた悩みを打ち明けてくれました」

「教会?」

 その横で水木さんは顔を覆ってうつむいた。

「それから彼は時々教会を訪れ、やがて私達は親しくなり、次第に私は彼の出資している店や、彼のマンションを行き来するようになったんです。私が聖職者である事も信用の一つだったんでしょう、彼は私に様々な秘密を打ち明けてくれるようになりました──その一つが隠しカメラでした」

「カメラ……」

「そうです。彼は、自分のマンションを訪れた来客を……その……つまり、隠し撮りするのが好きだったのです……そしてそういった映像を、自分に何かあった時には全て破棄して欲しいと、私は秘密裏に頼まれていました」

「主人は、どうしてそんな、隠して人を録画したりしていたんでしょうか……」

「なぁ薔子さん。貴方のご主人は、貴方が考えている人とは、少し違った人だったんだよ」

 水木さんがうめくように言う。

「沈黙の神ハルポクラテスの神話だ」

 不意に櫻子さんが口を開いた。

「ハルポ──?」

「ギリシャ神話の美と愛の女神は鍛冶かじの神の妻だったが、夫の目を盗み、軍神との秘め事に没頭していた。それを息子であるエロースに見られた彼女は、沈黙の神ハルポクラテスに我が子の口封じを頼んだのさ。そのお礼に彼女が贈ったのが薔薇だ。以来、薔薇というのは『秘密』を意味する」

 櫻子さんの言葉を聞いて、薔子さんが首を傾げる。

「そうね、だからローマには昔から、薔薇の木の下で語られた内容は、他に明かしてはならないという誓いがあったわ──それと、主人になんの関係が?」

「そのマンションとは、彼にとって薔薇の木の下だったという事だろう」

 その言葉にはっとしたように、薔子夫人が顔を上げた。

「明人さんに女性がいたと、そう言うの?」

「いいや、おそらくは女性じゃないんだろう」

「…………」

 神父と水木さんが黙って俯いた。

「殺害現場の映像があるなら、警察に持ち込めばいい話だ。だけど彼らはそれを渋り、わざわざこんな降霊会なんていう愚かな舞台まででっち上げて、犯人を自首させようとした。最初私は、その理由がわからなかった」

 くくく、と櫻子さんがのどを鳴らして笑う。

「だが名家の主人で、財政界にも影響力のある男と、神父が懇ろな関係にあった。そういう店に通っていたという事は、おそらく恋人は神父だけに限らず、他にも大勢いたんだろうね。しかも彼は常習的にマンションでの密儀を全て録画してあった──非常にスキャンダラスな話題だよ」

 答える代わりに、神父が俯いた。

「懇ろ……? 恋人……? 神父様が?」

「他にも、探られたくない腹があるんだろう。協力していると言うことは、君たちはお互いの性癖に理解がある関係なんだろう。いや、もしかしたら自分たちも映っているのかもしれないな」

 彼らは否定せず、やっとその意味を理解した薔子夫人が「まぁ……」と顔を真っ赤に染め、口元を手で覆った。

「とにかく君たちは、映像を利用せずに、大原氏を警察に突き出したいと考えた。ビデオを提出してしまえば、その存在について問われるだろうし、編集すればこんせきが残ってしまう。警察がいぶかしむ可能性は高いだろう。だからビデオは使いたくない。けれど他に証拠が見つからない。だからこの場で明人氏の亡霊を降臨させ、彼に自白と自首をさせようとしたんだな」

「……そうだよ。アンタさえ余計なことを言わなければ、何もかも上手うまくいった筈なんだ」

 水木さんが、櫻子さんを睨む。

「結果論だ」

「いいや! アンタさえいなければ、あの男を警察に突き出せたんだよ!」

「待ってください!」

 一触即発、声を荒げる水木さんと、それを不愉快そうに見つめる櫻子さん。その間に入るように、薔子さんが制止の声を上げた。

「主人は……男性が好きだったんですか?」

「…………」

 誰も返事は出来なかった。

 けれどやがて、深く深く、神父が薔子さんに向かってこうべを垂れた。

「私は……貴方あなたの前に、こんな風に姿を現すべき人間ではなかったんです。本当に……私は、貴方に申し訳ない。ですが、それでも私は大原氏を──」

「……私、嫌われているのだと、思っていました」

「え?」

 けれど、彼女は謝罪する神父を見もせずに、窓の外を見つめ、ふっと笑った。

「もともと、見合い結婚です。私が子供を産めない身体だと知ってから、主人は私の身体を一切愛してくれなくなりましたわ。だからずっと、私の事が本当は好きではないのだと思ってましたの」

 薔子さんはゆっくりと席を離れると、窓側に歩み寄り、割れたガラスを一枚、手に取った。

「私の事を気遣って、本当に大事にしてくださった人なんです。苦労は多かったですけれど、けん一つしない穏やかな毎日でした。それでも……心の何処どこかで、私は主人にいとわれていると、ずっとそう思っていたんです」

「それは違う」

 水木さんが、はっきりとした口調で否定した。

「千代田さんは、女性を愛せない人だった。それでも、貴方のことはこの世でただ一人、家族と呼べる女性だと、そう言ってたんだよ。離縁して、貴方を自由にしてやらないのは、自分のエゴだと。千代田さんは、確かに貴方のことを、貴方の育てる薔薇ばらたちも、全てを愛していたんだ」

「そう……」

 ガラスの破片が、ろうそくの明かりにきらりと、光る。僕は一瞬、それが薔子さんの涙のように見えた。

「……それが貴方の望む形とは少し違うのだと、そう罪悪感を抱きながらも、それでも彼は貴方を失いたくなかったんだ。どうか信じてくれ。彼が人生でただ一人必要とした女性は、貴方だったんだよ」

「本当にそうなら……うれしいわ」

「それは本当です! そりゃあ……夫人をだまそうとしたばかりの私達が言っても、説得力は無いかもしれませんが、これだけは……」

 小橋さんもそう付け加えると、薔子夫人はゆっくりと頷き、そのまま首をうなだれるように傾けたまま、外を見た。夜更けを過ぎて真っ暗な庭の薔薇を、サロンの明かりがおぼろげに照らしている。

「……私もね、主人と二人、休日の午後、雨の日に、部屋一杯に薔薇を飾って、お茶を飲みながら他愛のない話をするのが大好きだったんですよ──ほら、ね。雨の日はゴルフはお休みになるから。雨なんて昔は嫌いだったんですけどね、明人さんと結婚してからは、休日の天気が雨だと嬉しくなったの」

 薔子さんの手の中には、まだ割れたガラスが握られている。ガラスを扱う彼女の指先のおぼつかなさに、とうとうしびれを切らしたように櫻子さんが歩み寄ると、彼女はやんわりと薔子さんの手に、己の手を重ねた。

「一緒にいられる日が、私は嬉しかったんです、本当に──」

 薔子さんは、そうつぶやくように言ってガラスを手放し、そして櫻子さんの肩に寄りかかるように顔をうずめた。

「私は、あの人を幸せにしてあげられなかったのだと、嫌いな私との時間をずっと我慢させていたんだって、ずっとそう後悔していたんです。特にあの人が亡くなってからは、悔恨にさいなまれる毎日でした……でももし、そうじゃなかったのなら、あの人も幸せだったなら、良かったわ」

「不幸だなんて、そんな事あるものか。千代田さんは貴方と結婚して幸せだったんだ。確かに彼は、時には神にもすがりたいほど、苦しんでもいたんだろう。でもそれは、貴方を愛したかったからだ。彼はね、貴方を幸せにしたかったんだよ。貴方を嫌っていたら、そんな事を考えると思うのかい?」

 水木さんが力強く言った。

「本当に、良かった……」

 呟いた薔子夫人の声は、涙でかすれ、にじんでいた。

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