第参骨 薔薇の木の下⑨
薔子夫人は一度下を向き、寄りかかっていた櫻子さんから体を離すと、静かに、けれどはっきりと言った。
「ここは
「そんな!」
「そもそも事故とも言えなくないわ。彼だって優秀な弁護士を用意するでしょうし、逮捕されたところで実刑になるかどうかもわからないでしょう。それでも、彼に何かあれば困る人たちが沢山います。大原さんのオープンフィールドグループは、この道北経済の
「貴方は
神父が怒りと憎悪を鋭く含んだ声で、薔子さんに怒鳴った。
「違います。けれど、それはきっと主人の望みとは違うわ。あの人は優しい人でした。たくさんの人達の生活を守るためならば、きっとこうすることを選ぶでしょう」
「それに……不況の折、大原会長には感謝してもしきれない程のご恩があるの。主人の事業が失敗し、
「だからといって! 大原は犯罪者なんですよ! 殺人犯だ!」
正義を訴える彼の正しさは、痛いほどわかった。正直、僕にも薔子さんの決断が最善だとは思えない。だけど薔子さんは首をしっかり横に振った。
「けれど復讐したとしても、あの人は生き返らないわ。貴方たちにとっては、これは愛故の復讐劇という『美談』なのでしょう。でも、私にとってはもう終わってしまった事よ。何をどうしようとあの人は帰って来ないの。私に出来る事は、やらなければならない事は、主人の
僕らの前に立ち、力強くそう言った薔子さんから、ほっそりとした身体や、あどけない微笑みからは想像もつかないほどの威厳と気迫を感じた。
「赦すのが、貴方方聖職者の専売特許ではなかったのかね?」
櫻子さんが息を吐くようにそう言うと、神父はだん! とテーブルを
「結局貴方たちは金が全てなのか!? 正しい事をするべきだと、そう考えはしないのか!?」
神父の声が、血を吐くような叫び声が、割れ鐘のようにサロンに響き渡った。けれど明かりのともったこの部屋で、霊媒師だった時の神通力は存在せず、彼の言葉に賛同する人はいなかった。
「どうして……水木さん、貴方は私の味方だったのでは……?」
「……いや。私は、亡くなった千代田さんの味方だ」
「すまない、だがあのビデオは絶対に公開する訳にはいかないんだ。大原を破滅させる事は出来るだろう。だがそれは、同時に千代田さんの過去まで傷つけてしまう。かといって他の手段を考えようにも、こんな茶番を打つのはもう無理だろう……ここは、千代田夫人の言うとおりだ」
本当にすまない──そう言って、水木さんが神父に頭を下げた。故郷を愛する者達の中で、神父だけが異邦人だった。
「そんな事……神がお赦しになるはずがない……」
「いいや。赦せないのは神ではなく、君だ。このインチキボードと一緒さ。物言わぬ神の言葉を、君は自分に都合良く聞いたフリをしているだけだよ。
はははと笑いながら、櫻子さんがウィジャ・ボードを拾い上げる。丁寧に角をまっすぐにして、神父の前に置き直すと、彼女はテーブルの下に転がっていたプランシェットを手に取り、小さな丸い穴を
「違う! 私は!」
「いいえ、わかるわ。貴方は主人の
薔子さんが
「彼がこれから暗闇を、一人の時間を死ぬまで恐怖するように、貴方は心のそこから彼の平穏を奪いたかったのでしょう。愛する人を殺した男に、復讐をしたかったんだわ──嫉妬に
薔子さんはゆっくりと神父の肩に手を置いて、その背中を優しく
「──でも、明人さんの妻は私よ。貴方じゃない」
「な……」
神父の返事を待たずに、薔子さんは顔を上げきゅっと唇を結ぶと、上座に立って僕ら全員を見回し、厳しい口調で「お聞き下さい」と言った。
「千代田の名代として、言わせていただきます。この事は薔薇の下に隠しましょう。あの人は事故で
「は、はい」
水木さんと小橋さんが
「だから貴方も全部お忘れになって、神のお
薔子さんがそう強い口調で言うと、神父は視線を落とし、青ざめた顔でポツリと
「……何故ですか?」
瞳が伏せられ、その頰に、一筋涙が伝う。
「明人さんは、いつも
「人の主観など、その程度のものだという事だ」
絞り出すような、かすれた声で神父が問うた。けれど薔子さんが答えるより先に、鋭く櫻子さんが言った。割り込んできた櫻子さんに、また貴方か……と、不快感を表すように、神父があからさまに舌打ちをする。
「わかったような事を……」
「わかるさ。実際に君は、彼女の事を理解していなかったじゃないか。それに、逆に聞きたいんだが、何故大原が千代田氏を殺したと、君に断言できるんだ?」
「彼が逃げたからです。殺していなかったら、逃げたりはしないでしょう」
神父が鼻を鳴らして言った。何を当たり前の事を言うのだと、そう
「果たしてそうかな? 彼は立場のある人間だ。無実だとしても、疑われることを恐れたはずだよ。逃げるという選択をしても
「けれど本当に無実だというなら──」
「よく考えたまえ。罪を犯したなら証拠が残る。だがね、無実ならどうだ? やっていない事の証明が、いったいどうやって出来るんだ? やっていなければ、そもそも何も残らない。無実の確かな証明が出来るなら、
今度は神父は言い返す言葉が見つからなかったようで、ただわなわなと唇を震わせた。
「彼はビデオの存在も知らなかったのだろう。状況的に不利だと思ったんじゃないかな」
「そ、それも貴方の主観に過ぎないでしょう!」
「その反論はもっともだな。結局の所、千代田氏と大原がここに居ない以上、本当のことは誰にもわからない──勿論、君にも」
櫻子さんが言うと、神父は櫻子さんを
「私はこの身を地獄に
怒りに握りしめられた神父の
「全てを隠すですって? わかったような顔をして、何故そんな恐ろしい事が言えるんです? 結局……やっぱり貴方は、形だけの妻だったんですよ。夫の命より、金を優先する罪深い獣だ!」
そう神父が叫ぶと、薔子さんはカッとしたように手を振り上げた──けれど、その手が振り下ろされることは無かった。
「……割られた窓の修理代は結構ですわ、神父様。どうぞ気をつけてお帰りになって」
そう言って微笑むと、薔子夫人は
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