第参骨 薔薇の木の下⑨

 薔子夫人は一度下を向き、寄りかかっていた櫻子さんから体を離すと、静かに、けれどはっきりと言った。

「ここは薔薇ばらやかた。薔薇の下で語られた事は、他言無用──ほら、貴方の目の前にも薔薇が飾られているでしょう? だから……だから、貴方も全てをお忘れになって、神父様。私達はいにしえのルールに従い、沈黙を守りましょう」

「そんな!」

「そもそも事故とも言えなくないわ。彼だって優秀な弁護士を用意するでしょうし、逮捕されたところで実刑になるかどうかもわからないでしょう。それでも、彼に何かあれば困る人たちが沢山います。大原さんのオープンフィールドグループは、この道北経済のかなめです。旭川経済に、果ては北海道経済そのものにも大きな支障が出るわ」

「貴方はカネの為に、明人さんの死を闇に葬るつもりなんですか!?」

 神父が怒りと憎悪を鋭く含んだ声で、薔子さんに怒鳴った。

「違います。けれど、それはきっと主人の望みとは違うわ。あの人は優しい人でした。たくさんの人達の生活を守るためならば、きっとこうすることを選ぶでしょう」

 りんとした口調で、薔子さんが答える。

「それに……不況の折、大原会長には感謝してもしきれない程のご恩があるの。主人の事業が失敗し、ひどい負債を抱えてしまった時にね。銀行も力になってくれなかったのに、大原さんは二つ返事で私達に融資して下さったのよ。どうして見返りもなく、損すらあり得るのに、彼がこんなにも私達によくしてくれるのかと、私は不思議でした。きっと主人の人柄故だと思っていたけれど……でもそれはきっと、愛ゆえのお力添えだったんでしょう──主人がもし本当に幽霊になっても話が出来るとしたら、復讐など望まないとそういうでしょう。あの人は、そういう人です」

「だからといって! 大原は犯罪者なんですよ! 殺人犯だ!」

 正義を訴える彼の正しさは、痛いほどわかった。正直、僕にも薔子さんの決断が最善だとは思えない。だけど薔子さんは首をしっかり横に振った。

「けれど復讐したとしても、あの人は生き返らないわ。貴方たちにとっては、これは愛故の復讐劇という『美談』なのでしょう。でも、私にとってはもう終わってしまった事よ。何をどうしようとあの人は帰って来ないの。私に出来る事は、やらなければならない事は、主人ののこした全てを守る事よ」

 僕らの前に立ち、力強くそう言った薔子さんから、ほっそりとした身体や、あどけない微笑みからは想像もつかないほどの威厳と気迫を感じた。

「赦すのが、貴方方聖職者の専売特許ではなかったのかね?」

 櫻子さんが息を吐くようにそう言うと、神父はだん! とテーブルをたたき、乱暴にウィジャ・ボードを床に払い落とした。

「結局貴方たちは金が全てなのか!? 正しい事をするべきだと、そう考えはしないのか!?」

 神父の声が、血を吐くような叫び声が、割れ鐘のようにサロンに響き渡った。けれど明かりのともったこの部屋で、霊媒師だった時の神通力は存在せず、彼の言葉に賛同する人はいなかった。

「どうして……水木さん、貴方は私の味方だったのでは……?」

「……いや。私は、亡くなった千代田さんの味方だ」

 ぼうぜんとする神父に、小橋さんも控えめに頷いた。

「すまない、だがあのビデオは絶対に公開する訳にはいかないんだ。大原を破滅させる事は出来るだろう。だがそれは、同時に千代田さんの過去まで傷つけてしまう。かといって他の手段を考えようにも、こんな茶番を打つのはもう無理だろう……ここは、千代田夫人の言うとおりだ」

 本当にすまない──そう言って、水木さんが神父に頭を下げた。故郷を愛する者達の中で、神父だけが異邦人だった。

「そんな事……神がお赦しになるはずがない……」

「いいや。赦せないのは神ではなく、君だ。このインチキボードと一緒さ。物言わぬ神の言葉を、君は自分に都合良く聞いたフリをしているだけだよ。噓には足が無いA lie has no legsとでも言いたいのだろうがね。だが実際は神も、そして死者ゴーストも、足どころか手も口も持たないのさ──もちろん心臓ハートもね」

 はははと笑いながら、櫻子さんがウィジャ・ボードを拾い上げる。丁寧に角をまっすぐにして、神父の前に置き直すと、彼女はテーブルの下に転がっていたプランシェットを手に取り、小さな丸い穴をのぞいて言った。ハート形のプランシェットには、叩き落とした衝撃のせいか、縦にひびの黒い筋が入っている。

「違う! 私は!」

「いいえ、わかるわ。貴方は主人のふくしゆうではなく、しつの思いで彼を糾弾したいのでしょう……霊に責められ、警察に自首させる──罪を償わせたい、それだけではないわね。主人の霊が彼を憎んでいると、彼の命を狙っていると、そう思わせたかったのでしょう……貴方は本当に、主人を愛していたのね」

 薔子さんがくらひとみで言うと、神父の唇から、またひゅっとえつあふれた。

「彼がこれから暗闇を、一人の時間を死ぬまで恐怖するように、貴方は心のそこから彼の平穏を奪いたかったのでしょう。愛する人を殺した男に、復讐をしたかったんだわ──嫉妬にとりかれ、大原さんを破滅させたかったのよ。主人の為じゃないわ、自分の為にね」

 薔子さんはゆっくりと神父の肩に手を置いて、その背中を優しくでるようにして、その耳元に唇を寄せた。

「──でも、明人さんの妻は私よ。貴方じゃない」

「な……」

 神父の返事を待たずに、薔子さんは顔を上げきゅっと唇を結ぶと、上座に立って僕ら全員を見回し、厳しい口調で「お聞き下さい」と言った。

「千代田の名代として、言わせていただきます。この事は薔薇の下に隠しましょう。あの人は事故でったんです。そんなビデオは、何処どこにも存在しません。よろしいですね」

「は、はい」

 水木さんと小橋さんがうなずいたので、慌てて僕も頷いた。反論など一mgも許さない、それは支配者の言葉だった。

「だから貴方も全部お忘れになって、神のおひざの上にお戻りなさい。復讐よりも、楽しい日々をしのんで欲しいと、あの人もそう思っているはずよ」

 薔子さんがそう強い口調で言うと、神父は視線を落とし、青ざめた顔でポツリとつぶやいた。

「……何故ですか?」

 瞳が伏せられ、その頰に、一筋涙が伝う。

「明人さんは、いつも貴方あなたの話ばかりしていました……貴方は本当に素晴らしい女性だったはずだ。なのに、何故こんな事が言えるんですか? どうして他でも無く貴方が、明人さんを殺した男をかばうんです?」

「人の主観など、その程度のものだという事だ」

 絞り出すような、かすれた声で神父が問うた。けれど薔子さんが答えるより先に、鋭く櫻子さんが言った。割り込んできた櫻子さんに、また貴方か……と、不快感を表すように、神父があからさまに舌打ちをする。

「わかったような事を……」

「わかるさ。実際に君は、彼女の事を理解していなかったじゃないか。それに、逆に聞きたいんだが、何故大原が千代田氏を殺したと、君に断言できるんだ?」

「彼が逃げたからです。殺していなかったら、逃げたりはしないでしょう」

 神父が鼻を鳴らして言った。何を当たり前の事を言うのだと、そういらち混じりの答えだった。けれど櫻子さんは目を細め、さらにいやみったらしい声でククッと笑いをらした。

「果たしてそうかな? 彼は立場のある人間だ。無実だとしても、疑われることを恐れたはずだよ。逃げるという選択をしてもせん無いことだ」

「けれど本当に無実だというなら──」

「よく考えたまえ。罪を犯したなら証拠が残る。だがね、無実ならどうだ? やっていない事の証明が、いったいどうやって出来るんだ? やっていなければ、そもそも何も残らない。無実の確かな証明が出来るなら、えんざい事件など起きやしないだろう?」

 今度は神父は言い返す言葉が見つからなかったようで、ただわなわなと唇を震わせた。

「彼はビデオの存在も知らなかったのだろう。状況的に不利だと思ったんじゃないかな」

「そ、それも貴方の主観に過ぎないでしょう!」

「その反論はもっともだな。結局の所、千代田氏と大原がここに居ない以上、本当のことは誰にもわからない──勿論、君にも」

 櫻子さんが言うと、神父は櫻子さんをにらんだ。その瞳には確かな怒りが宿っていて、僕は慌てて櫻子さんと神父の間に入った。殴られるかもしれないと覚悟したけれど、神父は一瞬、逆に自分が傷ついたような表情を見せた。もしかしたら、僕の目の中に、あるいは窓ガラスに映った自分の姿に気がついたのかもしれない。けれど彼はすぐに、また怒りに体中を震わせた。

「私はこの身を地獄におとしても、それでも大原の罪を正す覚悟でここに来ました。貴方達がなんと言おうと、大原がいなければ、明人さんが死なずに済んだ事に間違いは無いんです! 絶対に千代田夫人の決断には従うべきじゃない!」

 怒りに握りしめられた神父のこぶしが、革手袋が、ギリリと細い悲鳴のようにきしむ。彼は改めて薔子さんを見た。彼女は一瞬じろぎしたけれど、それでもまっすぐ、神父の視線を受け止めるように彼を見返した。先に目をらせたのは神父の方だった。

「全てを隠すですって? わかったような顔をして、何故そんな恐ろしい事が言えるんです? 結局……やっぱり貴方は、形だけの妻だったんですよ。夫の命より、金を優先する罪深い獣だ!」

 そう神父が叫ぶと、薔子さんはカッとしたように手を振り上げた──けれど、その手が振り下ろされることは無かった。

「……割られた窓の修理代は結構ですわ、神父様。どうぞ気をつけてお帰りになって」

 そう言って微笑むと、薔子夫人はさつそうとサロンを後にした。やがて神父の泣き叫ぶ声だけが、がらんどうのサロンに響き渡っていた。

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