第参骨 薔薇の木の下⑧

    ■陸


 電気をけ、蠟燭を消し、割れたガラスの片付けを済ませると、まるで魔法が切れてしまったように、サロンは、僕らは、日常の世界を取り戻した。

「それで、どうして彼は殺されたんだ? えんこんという感じはしなかったが」

 櫻子さんが問うと、神父は首を横に振った。

「わかりません。ただ……大原と千代田さんは、かつて親密な関係であったと聞いています」

「大原さんは、私達夫妻の恩人です」

 薔子さんが素早く言うと、神父は視線を足下に落とした。

「音声がないので、会話の内容まではわかりません。最初は、二人は和やかに話をしていたようですが、やがてそれは口論に変わりました──そして言い争いの末、もみ合いになり……千代田さんは階段から落ちたんです」

「…………」

「丁度、ひざを痛めていた千代田さんは、体勢を整え直すことが出来なかったんでしょう、そのまま身体をかばう事も出来ずに階段から落ちました……そして大原さんは、そんな明人さんを助けもせずに、部屋から逃げたんです。明人さんはすぐには亡くなっていませんでしたが、苦しげにもがいて──やがて動かなくなりました」

 神父の声が、涙に、怒りに震えた。愛する人の死にゆく様を、何も出来ずに見るしかない無念。聞いている薔子さんの頰にも、涙が一筋流れる。

「大原さんがすぐに救急車を呼べば、明人さんは死なずに済んだかもしれないんです! あの人が、あの人が明人さんを殺したんだ!」

 そう叫ぶと、とうとう耐えきれなくなったというように、神父は泣き崩れた。水木さんが神父の肩をそっとたたくと、「ここからは、私が説明しよう」と言って、テーブルに寄りかかるようにして、一度目頭に軽く手を添えてから、深呼吸を一つした。

「聞かせてくれ。神父はともかく、何故貴方達までこんな愚かな茶番に加担しているんだ?」

 水木さんと小橋さんを見て櫻子さんが問うと、水木さんは苦々しく笑った。

「そうだな、確かに愚かかもしれないが……私達にはこれしか方法が無いと思ったんだ」

 くつくつとちよう的な笑いが収まると、水木さんは自分のふとももを軽く叩いて、覚悟を決めたように話を始めた。

「千代田さんの出資していた店というのは、一部では有名な店だったんだ──私も、常連客の一人だった。私は千代田さんとはそう親しい訳じゃ無かったが、もちろん面識はあったし、酒の席を共にしたこともある。私は千代田さんの人となりが好きだったよ。千代田さんが亡くなった時は、私も本当にショックだった。だから彼の葬儀から数日後、私はヨーク神父の元を訪れた。彼が千代田さんとごく親しかった事は知っているし、きっとその悲しみを分かち合う人間は、他にいないと思ったんだ」

 水木さんはそこまで言うと、ポケットからハンカチを出して神父に差し出した。けれど神父は受け取らず、結局水木さんは自分の額をぬぐってから、苦い顔で再びそれをポケットにしまった。

「……そこで私は、神父からビデオの存在を聞かされたんだ。詳細は説明出来ないが……中には私に不都合な内容も収められていた。彼は仕事でもあの部屋を使っていたからね。あのビデオに収められているのは、何も色めいた事だけじゃ無いんだよ。千代田さんは善良な人だったが、同時に彼は優秀な経営者でもあったからね。世の中は正しい事だけじゃ回らないんだ」

「成る程。ビデオの存在を隠すことを提案したのは貴方なんだな」

 櫻子さんが問うた。水木さんは苦笑いを浮かべた後、ゆっくり首を横に振った。

「いや、勿論容易に他言できない事だと、ヨーク神父だってわかっていたよ。でもそれでも、彼は私に真実を告げ、そしてなんとしてでも大原氏に誠実な行動を取らせたいと、そう持ちかけてきたんだ──それを断ることなど、私には出来なかったよ」

 水木さんは一度深くためいきを吐き出し、目を閉じた。どうやら涙をこらえているらしい。彼はもう一度長く息を吐いて呼吸を整え、表情の無い顔で話を再開した。

「だがね、それは簡単な事じゃなかった。ビデオはそもそもこの世には存在しないはずの物だからね。だから二人で知恵を絞ったさ。そのうち私達では力不足である事に気がつき、悩んだ末に小橋さんにも共犯者になってもらうことにしたんだ。演技力という面で、彼は本当に力になってくれたよ。降霊会を装うと提案してくれたのも彼だ」

 突然自分の名前が出た事に、小橋さんは驚いたように目を見開き、少しちゆうちよした後「そうなんです」と薔子夫人に頭を下げた。

「……千代田さんには、若い頃から随分世話になったんですよ。亡くなるまでスポンサーとして、私の舞台を支え続けてくれていました。今、うちの若手が北海道を飛び出して、伸び伸びやらせてもらってるのも、千代田さんのバックアップあっての事なんです」

「知ってるわ。小橋さんや、貴方あなたの劇団の人の名前を見る度に、主人はとても喜んでいたもの……」

 薔子さんが答えた。でもどこか心あらずな響きだったのは、神父の告白を心の中で整理しきれないでいるからだろうか。やがて薔子さんはきゅっと唇をみ、視線を下に落とした。またサロンに沈黙が流れ、僕はせきばらいを一つした。

「あの……本当に、大原さんが突き飛ばしたんですか?」

 僕が問うと、まるで初めて僕がそこにいるのに気がついたとでも言うように、神父が僕をにらんだ。小橋さんと水木さんも僕を見てから、すぐにお互いに顔を見合わせた。

 やがて苦々しい表情で、水木さんが口を開いた。

「……三人で、繰り返し、繰り返し、何度も何度も千代田さんが落ちるシーンを見たよ」

 そう言って、水木さんがてのひらで顔を覆った。何度も、何度も──その言葉に、深い悲哀がにじんでいる。

「丁度カメラの死角に入ってしまっていて、大原が突き飛ばしたかどうかは、実のところよくわからないんだ。千代田さんは落ちて、どうやら失神してしまっていたらしい。それを見て、大原は彼が死んだと思い込んだんだろうね。大慌てで彼は部屋から逃げていったんだ」

 僕は彼らを見た。答えを知る為とはいえ、好きだった人の死ぬ瞬間を何度も繰り返し見るというのは、きっとつらいはずだ。それでも彼らを突き動かしたのは、正義感なんだろうか? それともふくしゆうという名の、情念なんだろうか。

「だけど、千代田さんは死んでいませんでした。あの男が逃げなければ、きちんと救急車を呼んでくれさえすれば……彼は助かったかもしれないんです」

 神父はのどを震わせるようにして言った。小橋さんは何も言わず、口を堅く結んだまま何度もうなずいて見せた。

「……そうでしょうか」

 けれど彼らを否定したのは、他でも無く薔子さんだった。

「何だって?」

「それも……結果論ではありませんか?」

「は……?」

 三人は、信じられない言葉を耳にしたと、目を見開き、まるで挑むような目で薔子さんを見た。

「勿論、彼がきちんと対処してくれていたら、主人は死なずに済んだかもしれません。でも、あくまでそれは仮定の話です。主人が自分で階段から足を滑らせた可能性も、救急車を呼んだところで助からなかった可能性だってあるわ。違いますか?」

「……何を言ってるんです?」

 薔子さんは静かに彼らを見つめ、やがて深く息を吐き出した。

「少なくとも、大原さんに、明確に殺意があったわけではないのでしょう?」

「わかりませんが……」

「そして、そのビデオには、他にも明るみに出るべきではないことが、隠すべき事が収められているのね。だから貴方達は普通の形で通報は出来ないと思った」

「ええそうです。けれどこうなった以上、私は警察に行くつもりです」

 神父が力強い声でそう言うと、水木さん達が慌てて顔を上げた。

「それは──ヨーク神父、それは、あんた……やったら大変なことになる」

「かといって、このままでゆるされるはずがありません」

「赦す──それは、誰のお話なの? 神様? それとも神父様? あの人は……主人は、本当に彼の逮捕を望んでいるのかしら」

「え?」

「望んでいるものか」

 櫻子さんがちようしようを含んだ声でつぶやいた。

「アンタ! 何をわかったような口を!」

 水木さんが顔を怒りで真っ赤にする。

「わかっているとも。少なくとも貴方たち以上にはね。死者は何も望みはしない。復讐してくれと、貴方たちに言うはずが無いんだ。なぜなら彼は、物言わぬただのしかばねだ。今はもはや、燃え残った骨のカスに過ぎない」

「なんてことを!」

 水木さんが口の端に泡を飛ばしながら怒鳴った。

「私は事実を述べているだけだ」

 櫻子さんが静かに答えると、驚いた事に薔子さんはふふ、と静かに笑った。寂しそうな表情で。

「そうね……そんな事無いわって言いたいけれど、実際はそうね。あの人はもうお墓の下だもの。何度お参りに行っても、墓石に何度話しかけても、私に答えてくれないわ」

「だからって……まさか、貴方は、大原さんを赦すとでも言うんですか!?」

「別に赦すわけではないわ。でも、櫻子の言うように、死人に口はないの。あるのは残された人間の生活と、かつての名声や生きてきたこんせきよ」

「千代田夫人……?」

「だから……私が沈黙の神ハルポクラテスになりましょう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る