第参骨 薔薇の木の下⑧
■陸
電気を
「それで、どうして彼は殺されたんだ?
櫻子さんが問うと、神父は首を横に振った。
「わかりません。ただ……大原と千代田さんは、かつて親密な関係であったと聞いています」
「大原さんは、私達夫妻の恩人です」
薔子さんが素早く言うと、神父は視線を足下に落とした。
「音声がないので、会話の内容まではわかりません。最初は、二人は和やかに話をしていたようですが、やがてそれは口論に変わりました──そして言い争いの末、もみ合いになり……千代田さんは階段から落ちたんです」
「…………」
「丁度、
神父の声が、涙に、怒りに震えた。愛する人の死にゆく様を、何も出来ずに見るしかない無念。聞いている薔子さんの頰にも、涙が一筋流れる。
「大原さんがすぐに救急車を呼べば、明人さんは死なずに済んだかもしれないんです! あの人が、あの人が明人さんを殺したんだ!」
そう叫ぶと、とうとう耐えきれなくなったというように、神父は泣き崩れた。水木さんが神父の肩をそっと
「聞かせてくれ。神父はともかく、何故貴方達までこんな愚かな茶番に加担しているんだ?」
水木さんと小橋さんを見て櫻子さんが問うと、水木さんは苦々しく笑った。
「そうだな、確かに愚かかもしれないが……私達にはこれしか方法が無いと思ったんだ」
くつくつと
「千代田さんの出資していた店というのは、一部では有名な店だったんだ──私も、常連客の一人だった。私は千代田さんとはそう親しい訳じゃ無かったが、
水木さんはそこまで言うと、ポケットからハンカチを出して神父に差し出した。けれど神父は受け取らず、結局水木さんは自分の額をぬぐってから、苦い顔で再びそれをポケットにしまった。
「……そこで私は、神父からビデオの存在を聞かされたんだ。詳細は説明出来ないが……中には私に不都合な内容も収められていた。彼は仕事でもあの部屋を使っていたからね。あのビデオに収められているのは、何も色めいた事だけじゃ無いんだよ。千代田さんは善良な人だったが、同時に彼は優秀な経営者でもあったからね。世の中は正しい事だけじゃ回らないんだ」
「成る程。ビデオの存在を隠すことを提案したのは貴方なんだな」
櫻子さんが問うた。水木さんは苦笑いを浮かべた後、ゆっくり首を横に振った。
「いや、勿論容易に他言できない事だと、ヨーク神父だってわかっていたよ。でもそれでも、彼は私に真実を告げ、そしてなんとしてでも大原氏に誠実な行動を取らせたいと、そう持ちかけてきたんだ──それを断ることなど、私には出来なかったよ」
水木さんは一度深く
「だがね、それは簡単な事じゃなかった。ビデオはそもそもこの世には存在しない
突然自分の名前が出た事に、小橋さんは驚いたように目を見開き、少し
「……千代田さんには、若い頃から随分世話になったんですよ。亡くなるまでスポンサーとして、私の舞台を支え続けてくれていました。今、うちの若手が北海道を飛び出して、伸び伸びやらせてもらってるのも、千代田さんのバックアップあっての事なんです」
「知ってるわ。小橋さんや、
薔子さんが答えた。でもどこか心あらずな響きだったのは、神父の告白を心の中で整理しきれないでいるからだろうか。やがて薔子さんはきゅっと唇を
「あの……本当に、大原さんが突き飛ばしたんですか?」
僕が問うと、まるで初めて僕がそこにいるのに気がついたとでも言うように、神父が僕を
やがて苦々しい表情で、水木さんが口を開いた。
「……三人で、繰り返し、繰り返し、何度も何度も千代田さんが落ちるシーンを見たよ」
そう言って、水木さんが
「丁度カメラの死角に入ってしまっていて、大原が突き飛ばしたかどうかは、実のところよくわからないんだ。千代田さんは落ちて、どうやら失神してしまっていたらしい。それを見て、大原は彼が死んだと思い込んだんだろうね。大慌てで彼は部屋から逃げていったんだ」
僕は彼らを見た。答えを知る為とはいえ、好きだった人の死ぬ瞬間を何度も繰り返し見るというのは、きっと
「だけど、千代田さんは死んでいませんでした。あの男が逃げなければ、きちんと救急車を呼んでくれさえすれば……彼は助かったかもしれないんです」
神父は
「……そうでしょうか」
けれど彼らを否定したのは、他でも無く薔子さんだった。
「何だって?」
「それも……結果論ではありませんか?」
「は……?」
三人は、信じられない言葉を耳にしたと、目を見開き、まるで挑むような目で薔子さんを見た。
「勿論、彼がきちんと対処してくれていたら、主人は死なずに済んだかもしれません。でも、あくまでそれは仮定の話です。主人が自分で階段から足を滑らせた可能性も、救急車を呼んだところで助からなかった可能性だってあるわ。違いますか?」
「……何を言ってるんです?」
薔子さんは静かに彼らを見つめ、やがて深く息を吐き出した。
「少なくとも、大原さんに、明確に殺意があったわけではないのでしょう?」
「わかりませんが……」
「そして、そのビデオには、他にも明るみに出るべきではないことが、隠すべき事が収められているのね。だから貴方達は普通の形で通報は出来ないと思った」
「ええそうです。けれどこうなった以上、私は警察に行くつもりです」
神父が力強い声でそう言うと、水木さん達が慌てて顔を上げた。
「それは──ヨーク神父、それは、あんた……やったら大変なことになる」
「かといって、このままで
「赦す──それは、誰のお話なの? 神様? それとも神父様? あの人は……主人は、本当に彼の逮捕を望んでいるのかしら」
「え?」
「望んでいるものか」
櫻子さんが
「アンタ! 何をわかったような口を!」
水木さんが顔を怒りで真っ赤にする。
「わかっているとも。少なくとも貴方たち以上にはね。死者は何も望みはしない。復讐してくれと、貴方たちに言うはずが無いんだ。なぜなら彼は、物言わぬただの
「なんてことを!」
水木さんが口の端に泡を飛ばしながら怒鳴った。
「私は事実を述べているだけだ」
櫻子さんが静かに答えると、驚いた事に薔子さんはふふ、と静かに笑った。寂しそうな表情で。
「そうね……そんな事無いわって言いたいけれど、実際はそうね。あの人はもうお墓の下だもの。何度お参りに行っても、墓石に何度話しかけても、私に答えてくれないわ」
「だからって……まさか、貴方は、大原さんを赦すとでも言うんですか!?」
「別に赦すわけではないわ。でも、櫻子の言うように、死人に口はないの。あるのは残された人間の生活と、かつての名声や生きてきた
「千代田夫人……?」
「だから……私が沈黙の神ハルポクラテスになりましょう」
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