第参骨 薔薇の木の下⑩

    ■漆


 西島夫妻が届けてくれた、まだ五分咲きの薔薇達が、濃密な香りを漂わせるKangooの助手席で、僕は無口だった。

「なんだ、怒っているのか?」

「別に……ただ、本当にこれで良かったのかって、そう思っただけです」

「何がだ」

「全部がですよ!」

「全部、とは?」

「だから全部です! 大原さんがやった事も、櫻子さんが降霊会をちや苦茶にしたことも! 神父さんが悪役にされていることも! 全部忘れようって薔子さんが決めた事も! 薔子さんが傷ついてるんだろうってわかってるのに、なんにもしてあげられない僕たちも!」

 苛立ちを隠さずに矢継ぎ早に僕が答えると、櫻子さんは声を上げて笑った。

「私達が口出しする事じゃ無いだろう。君も私も部外者だ」

「そうですけど……だいたい僕は神父の復讐は、間違いだったとは思えないんです。そりゃ……聖職の人が、結婚して奥さんのいる男性と……そういう仲になってるっていうのは、良いことじゃない気がしますけど。でも大原さんは、やっぱり何らかの裁きを受けるべきじゃ無いでしょうか?」

 櫻子さんが目を細め、フン、と鼻を鳴らす。

「なぁ、少年。結論というものが一つでなければならないと、いったい誰が決めたんだ?」

「だって──」

ろつこつだって二十四本あるんだ。物事を短絡的に一つに結論づける必要がいったい何処どこにある?」

「でもそれを支える背骨は一本ですよ! 正しい答えは存在するはずです!」

「背骨では無い、正しくはついこつだ。せきついこつでもいいが、あれは一本では無い。七個のけいついと十二個の胸椎、各五個の腰椎と仙椎、四個の尾椎の三十三の骨から作られている」

 してやったりという風に、櫻子さんが答えた。言い返したかったけれど、悔しいことに言葉が詰まってしまった。僕はせめてもの反抗に、車のカーオーディオをミュージックサーバーからラジオに切り替えてやった。櫻子さんの大好きなバンド、聖鬼Mk-IIの曲の中でも、いっとう好きな『切り裂きジャック』の曲の最中でだ。櫻子さんが「何をする!」と悲鳴を上げたけど、僕は知らんぷりをした。

「……骨と、世の中の全てのことを、同じに考えないで下さい」

「同じだよ。骨は、人生と同じだ」

叔父おじさんの言葉ですか?」

「いや。ニュージーランドの、土産物屋のじいさんの言葉だ」

「なんですか、それ」

「白内障になるまでは、マオリ伝統のボーンカービングの師匠をやっていたらしい。君は彼らの骨に対する──」

「もういいですよ!」

 またそこから、櫻子さんの骨講座が始まりそうだったので、僕は慌ててカーオーディオをミュージックサーバーに戻した。丁度『ひ・き・さ・け!』という、櫻子さんの一番好きなフレーズの部分で、まんまと彼女は歌の方に引き寄せられた。

「……少年。君は右利きか?」

「はい?」

「利き腕はどっちだ?」

「右、ですけど……」

「そうか。直江は左利きだ」

「はぁ……?」

 曲と曲の間、MCが入っている間に、突然櫻子さんが言った。そうか、在原さんは左利きなんだ……で? それが何なんですか? と僕は思った。

「子供の頃、左利きは駄目だと、いつも言われていた。左手ではしを持つと、食事を下げられてしまうんだ。中学に上がる頃には、どちらもそんしよくなく使えるようになっていたがね、わかるか? 彼が幼い頃、左利きは『悪』だったんだよ。だが今年で八歳になる直江のおいも左利きらしい。彼は左手で箸を持つし、左手ではさみも使う。誰もそれをとがめない。今はそういう風潮なんだそうだ」

「別に、実際には左利きって、そんな悪い事じゃないからじゃないですか?」

「そうだな。だがたった二十年かそこらの違いだ」

 彼女の意図に気がついて、また僕の苛立ちに火がついた。

「……じゃあ、何年か経ったら、殺人だって悪いことじゃなくなると、そう櫻子さんは言うんですか?」

「そこまでは言わないよ。だが、善だの悪だのと固執する事に、何処まで意味があるのかと問いたいだけだ」

「そうでしょうか?」

 正しい事を正しいと思いたい僕は、まだ子供なんだろうか。薔子さんの決断が立派だと思えるのと同時に、僕はそれが間違いのように思えてならなかった。

「それに、大原氏逮捕は本当に大変なことになるんだろう。薔子夫人はあの通りとても情に厚い人だ。その彼女が決断したという事は、彼の逮捕は避けるべきだという事だ──いいじゃないか、彼女はこれで納得しているんだ。私達がとやかく言うことではないよ。君も忘れたまえ」

 そう言われても、やっぱり納得できなくて、僕は窓に寄りかかってためいきをついた。夏だというのに、今夜はやけに風が冷たい。僕の溜息で曇った窓は、しばらく白いままで僕の視界を阻んだ。

「……直江は明日も時間があるらしい。今度は三人で寿に行こう」

 浮かない顔の僕を見て、彼女が慰めるように言ってくれた。どうやら食べ物を与えれば、僕の機嫌が直ると思っているらしい……全く、しょうが無い人だ。

「……それにしても、カラーの事だけでよく彼が神父だと気がつきましたね」

「そのことだが……実を言うと私は以前、彼に会っているんだ」

「ええ!? また得意の洞察力とかそういう事じゃないんですか!?」

 思わず声を上げると、櫻子さんがははは、と笑った。

「去年かな。直江と約束のあった日の事だ。駅前でしつこいやからに声をかけられてね、面倒だと思っていた時、あの神父が現れたんだ。彼は私の事などすっかり忘れているようだったがね。あの通りのべんと説教で、彼らを追い払ってくれたんだ」

「そういう言い方、やめて下さい。助けてもらったんでしょう? 悪い人じゃないと思います」

「そうか?」

「彼はただ、自分の大切なものを守りたかっただけですよ。愛とか、正義とか、信念とか、そういうのがピンと来ない櫻子さんには、わからないかもしれませんけど」

 僕のいやは、相変わらず櫻子さんに厭味と伝わらなかったらしい。確かにそうだ、と櫻子さんは神妙な顔でうなずいてから、そしてやっぱりとびっきりの可愛い表情で、僕に悪戯いたずらっぽく笑った。

「私が言うのもなんだがね、一つのことにとりかれた人間に、まともな者などおるまいよ。周囲との利害関係によっては、優れているなどと勘違いする者もいるがね、けれど実際は人格者なんてものからはほど遠いんだ。外鼻の下三分の二は、軟骨なので骨折しにくいが、鼻骨は堅く折れやすいのと同じさ。かたくなな人間は、人生を骨折しやすいんだ」

 貴方あなたが言うか? と本当に思った。だけどそれを否定する言葉が、どうしてか僕には思いつかなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る